能登半島地震 インタビュー|
漆芸家 桐本滉平さん

日本・石川県輪島市

2024.09.04 Wed

Research Thema

Disaster and Outdoor Activities

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石川県輪島市出身・在住、漆芸家の桐本滉平さんは、8世代に渡り輪島で漆に関わり続けてきた。
彼とは3年ほど前に知り合い、「コロナが終わったら輪島に遊びに行きます!」と話していたのだが、実現する前の2024年1月1日に能登半島地震が発生した。今回、発災から4ヶ月後の4月、東京にいらっしゃったタイミングで、被災当日の様子から経験して感じたことや、輪島や漆芸のこれからについてもお話を伺った。

  • 桐本滉平(漆芸家)

    1992年、石川県輪島市出身。漆、麻、米、珪藻土を素材とした乾漆技法を用いて「生命の尊重」をテーマに創作を行う。今回の能登半島地震で被災し、飼っていた猫が行方不明に。愛猫の捜索と共に保護猫活動も行っていた。市内を越えて彼の発信力、影響力は大きく、X等でも積極的に現地の様子を伝えており、多数メディアで活動が取り上げられている。

2024年1月1日能登半島地震発生

発災時の状況

1月1日16時過ぎの地震発生時、桐本さんは何をされていましたか?

桐本

1日は、高台にある施設にいた祖母に新年の挨拶がてら初詣に行こうと、両親と僕ら夫婦、弟夫婦で海沿いをドライブしていました。その高台にいる時に最初の緊急地震速報が鳴ったんですが、震度3程度で揺れに気づかない程度でした。だけどそのまま緊急地震速報が鳴り続けていたので、安全なところに行っておこうと話していたら、本震(震度7)が起こりました。

周りの道路がどんどんひび割れていき、陥没したり、大きな岩が道路に落ちてきたりしました。携帯はすぐ使えなくなったのですが、カーナビで見たテレビ報道で自宅が火災にあっているのが見えて、家を諦めました。その後、カーナビのテレビも見れなくなってラジオと防災無線だけが情報源。飼っている猫の安否確認をしなきゃと、妻とそれだけを考えていました。陽が落ちて津波警報が止まり、情報がない中、ゆっくり1時間ぐらい進む間にたくさんの家が全壊していて、地元の人がユンボで下敷きになった人を助けたり、心臓マッサージを受けていたりという姿を目にしました。

瓦が落ちた小さな日本家屋の公民館には50人ぐらいの人が徒歩で集まってきて、人が溢れて中に入れなくなっていました。外にも50人ぐらいが集まっていたけど情報が全然なくて、なぜか時々僕の楽天モバイルだけが電波を拾っていたので、少しずつ情報を仕入れていました。

情報インフラが遮断されて、何が起こっているかわからない状況だったんですね。

桐本

そうですね。近所のみなさんも自分の家は戻れる状態じゃなかったので集まってきて、「あっちが震源じゃないか」「こっちじゃないか」みたいなことを話しながら過ごしていました。お正月だったので、大量に用意していた餅とそばとおせちで凌ぎました。公民館の備蓄もあったんですが、それはすぐになくなりました。

2日目まではとにかく水がなくて、500mLのペットボトルを6人で分けていました。餅と蕎麦のほかにお酒も沢山あったので、みんなお酒を飲んで体を温めろと言って飲んでいました。みんな酔っ払ってだんだんテンションが上がってきて、変なアドレナリンが出ていました。

1月1日は1、2℃しかなかったのですが、地震の前から車移動をしていたので僕が上着を着ないで出てしまっていて、焚き火がなかったら辛かった。

当時の写真を見ながら振り返ってくれた Photography: Yota Hoshi

本震後の余震や火災、交通の影響

その後の余震などはどうでしたか?

桐本

震度2や3の余震は常にあって、震度4や5のものでも10回以上あったと思います。結局その日は、寝る時間も余裕もありませんでした。緊急地震速報も止まり、水はないし、寒さもひどいのに、次の日の朝方7時台になってもまだ外から人が来なくて情報もないままだったので、とにかく自分たちで動いてみるしかない状況でした。まだガソリンがある人は四方八方に分かれて通れる道を探したり、避難所や水、生きている自販機を探しました。

2日目の朝も人が来なかったとのことですが、状況は改善していったのでしょうか?

桐本

1月2日の夕方3、4時ぐらいに石川県警のパトカーや県議会議員の人たちが来たので、どこのルートから来たのかを聞いて伝言ゲームのように情報を回しました。掲示板に手書きの地図ができ始めて、病院までのルートはまず確保できました。その情報は実際に通ってきた道ということもあって正確でした。輪島市街地に行くためのルートが1本だけあると聞いて、家族6人で家に向かったんですが、自衛隊と消防車、警察官など、いろんな都道府県の緊急車両が来ていて大渋滞でした。いつもなら17分くらいの道に6時間もかかりました。

通れる道がかなり限られてしまっていたんですね。

桐本

その後、割れた地面に鉄板を置いて復旧させた橋が一本だけあり、そこを通って実家と全焼した自宅を見ることができました。自宅が全焼してしまったエリアは、焼けた熱い空気で息ができず、口を覆いながら家の前に行きましたが、まだ赤く燃えているところもあったので危険と判断して中に入るのは諦めました。

火災が発生してから24時間以上経った3日の朝になっても消防車は1台しか来ず、その1台で消火活動が続けられました。激動の3日間でした。

現地 輪島市にあるビルが横倒しになっていた
火災の被害が大きかった輪島朝市通り

火災や津波のニュースなども続いていましたが、そんな辛い状況だったんですね。

桐本

そうですね。市街地は海抜4、5メートルと低いので、みんな高台に避難しました。裸足で逃げている人もいました。本来は2万4000人ぐらいの街なんですけど、お正月で帰省している人も多く、恐らく3万人以上がいたんじゃないでしょうか。

山の方では土砂崩れもたくさんありましたよね。

桐本

土砂崩れは僕が確認しているだけでも、100か所以上あります。僕の友達が撮影した、目の前で土砂崩れが起きて逃げる動画がバズったのですが、その動画では彼のお母さんが猫を探すためになかなか家から出てこなくて、彼は「おかん、早く! 走れ!」と叫び、お母さんは猫を諦めて裸足で逃げていました。後日、ガリガリになった猫を僕らが救出しました。

  • ハナコプロジェクト

    日本で飼い主のいない犬猫(保護犬・保護猫)が、負担なく医療を受けられるしくみを作っている団体。賛同する動物病院、獣医師を集めることや、寄付を募り支援を行っている。現在は主に保護犬・猫の不妊去勢手術費用、飼い主のいない子犬、子猫のケアを中心に医療費支援を行っている。

外からの支援と地元コミュニティの心強さ

もう自分たちで動かざるを得ないという状況でもありました。輪島に関してはコミュニティが小さくて、商売の人も多いので、それぞれの連携がすごく素早くて、それはかなり強みになったんじゃないかなと思います。

支援を受ける側(被災者)として、どういったボランティア支援がとても助けになったというような経験はありますか?

桐本

ガソリンも灯油もない、僕に関しては上着もなかったので寒くて堪らなかったこともあって、モンベルのアウトドア義援隊の服は本当に助かりました。1月4日にモンベルが輪島に来たという噂を聞いて、すぐ行って物資の仕分けをみんなで手伝いながら、家族分のシュラフとマット、アウターのダウンとインナーのダウンももらいました。

被災猫の保護活動をやっていたのですが、猫が動く寒い早朝と夜の時間帯が活動時間だったので暖かい格好ができなかったら続けられませんでした。モンベルの皆さんは他にもヘルプの依頼があったにもかかわらず、輪島の全焼したエリアを2週に渡って4軒分更地にしてくれました。そのおかげで自分の家の瓦礫撤去や自宅の物の救出もできました。その後何ヶ月経っても片付いていたのはその4軒分だけでした。(※取材時点。6月1日からは他の解体も始まっている)

その段階では、公的な支援よりも民間の機動力が実際的な助けになったわけですね。

桐本

はい。もう自分たちで動かざるを得ないという状況でもありました。輪島に関してはコミュニティが小さくて、商売の人も多いので、それぞれの連携がすごく素早くて、それはかなり強みになったんじゃないかなと思います。

炊き出しに関しては、NGOの「ワールド・セントラル・キッチン」(WCK)の活動がかなり助けになりました。WCKは、メンバーの料理人を現地入りさせて、ローカルの食材・人材・流通を利用して食を提供する仕組みを作ったら、WCK自身は撤収するんです。WCKのメンバーになると特製の帽子やエプロンがもらえて、それが誇りになっていました。すごいのはメンバーとして働くと賃金が出るというところ。WCKは道具や材料、ノウハウを持ってきてくれて、あとはL’Atelier de NOTOのシェフ、池端隼也さんを中心とした現地の人がメンバーになって輪島セントラルキッチンという特別チームをつくりました。休業中の飲食店の人や漁師、魚屋、味噌屋、漆関係の仕事をしている人間が中心になって、計20人ぐらいで約3か月間続いています。(輪島セントラルキッチンは6月まで継続された。)

取材当時に伺った輪島セントラルキッチンの厨房
毎食全て手作りで炊き出しされていた
  • 「輪島セントラルキッチン」から「mebuki-芽吹-」へ

    輪島セントラルキッチンは6月末で一旦活動を終了。7月からは、「この街にあかりをともし、輪島に住んでいる方々、工事などで来られている方々、皆んなが笑顔になれる飲食店を作る」という次のフェーズに移行し、クラウドファンティングでの支援を得て「mebuki-芽吹-」をオープンさせている。

個人ボランティアに対する声と現状

地震発生当初「ボランティアに来るな」「行ってはいけない」という声がボランティアの活動にブレーキをかけ、結果的にその後も少ないままになってしまったのではないかということも言われます。現地ではこの情報や考え方、自治体、社会の反応についてどのように捉えていますか?

桐本

1月の段階では、来ていた一般車両がパンクしたり、滑落して24時間道路を止めたりということもあって、正直みんな憤りを感じるレベルでした。タイヤを自分で変えられたり、2台で来て、何かあった時はお互いに引っ張り合って助けることができるような自立、自活できる人たちであれば、緊急車両として登録して来てくれるのはありがたいことだと思います。

ツアー的にバスで来る人たちが来ていいですよとなったのは、2月に入ってからなんですね。でも、ボランティア申請をしてバスに乗って来ても、作業する現地に宿泊滞在できる場所がなくて、往復の移動に時間がかかってしまい、作業の実働時間が3、4時間しかないという状況でもありました。

3、4時間しかないと、何をしてもらうのかが難しい。ボランティアに行ったはいいけど、何もすることがなかったとか、逆に迷惑がられたみたいな意見もSNSで見ました。実際僕もそういう状況がありました。そういう時は手伝ってもらうよりも、町を案内して状況を見てもらい、今後も通ってもらえるようにちゃんと要求を伝える、ということしかできなかったです。

だから初動の来ないでくださいは間違ってなかったとして、その後に知事として、石川県として、もう来て大丈夫ですよというタイミングでの発信が足りてなかったとは思いますね。

SNSでもネガティブな意見の方が拡散されていた感じがありました。

桐本

そうですね。来るなという時に、行ってる人をバッシングする投稿がすごく拡散していました。「何で行ってるんだ」「行っちゃダメって言われてるじゃん」みたいな。でも、「来ていいですよ」というお知らせや投稿は全然拡散されない。あとは実際の問題点として泊まれる場所がなかったんですよ。

桐本さんは、個人的にボランティアで来た人が滞在できるコンテナを用意したそうですが、ボランティアに来た方はどんな作業をされたんですか?

桐本

瓦礫の撤去と猫の保護活動ですね。僕が借りているコンテナも安くないんですが、太陽光発電で1日エアコンが使えて、あと新幹線と同じ仕組みの水洗トイレが付いています。僕自身もしばらくコンテナで暮らしていました。

輪島の貴重な家財、先祖からの貴重な漆芸品や骨董品を救い出すボランティアは1日40人ぐらいの人たちに来ていただいています。「家の中の貴重なものを取ってもらいたい」「車がもしかしたら使えるかもしれないから取り出したい」など、まだまだ助けを必要としている人はいっぱいいます。

Photography: Yota Hoshi

アウトドアスキルは災害時に役立つのか

桐本さんはXで、「こうなったら被災者も支援者もアウトドア能力を高めるしかない」と書かれていました。そういう感覚は引き続きありますか?

桐本

あります。僕自身がすごい反省した部分でもあるんです。輪島の人、少なくても自分の周りにはわざわざキャンプに行く人もあまりいないんですね。キャンプをする人であれば寝袋とマット、テントを持っているし、よく釣りをする人は簡易トイレや簡易テントを持っていることが多いですよね。そういう普段から遊びのためにやっていること、持っているものが、災害時は命を守ってくれるんだということを痛感しました。

防水の服もあまり持っていなくて、雨風、雪からちゃんと体を守れるものを家に準備しておいて、日頃から車に積んでおいて損することないなと思いました。飯ごう炊飯で火を起こすためにどういう木がいいのかとか、浄水器もちょっと意識すれば準備できたなと反省しました。

モンベルが来てくれたおかげで、その辺のおじいちゃんが立派なゴアテックスを着てるという風景はちょっとおもしろかったですけどね。

輪島の復興と漆芸家としての今後

復旧から復興へ向けて

桐本さん自身、輪島塗の今後の活動イメージは見えていたりしますか。

桐本

輪島塗は分業で成り立っているので様々な人や業種が関わっています。例えば木を切る人や万形(あらがた)という木を大木の状態からカットして器型にする人や板状にする人もいます。そうした事業者は壊滅的だし、轆轤で形を作っていく木地師や漆を塗る人、下地塗りをする人、上塗りをする人、磨く、絵を描く人もいます。

一時期は壊滅的でしたが、徐々に復活しています。でも分業である以上、全工程のうちどこか数軒が復活したところでだめで、そもそも注文もないと仕事として動けません。そういう状況で別の仕事を探す人もたくさんいます。

なるほど。かなり厳しい状況なわけですね。

桐本

今後も震災前までの仕組みのまま同じものを作って、同じ販路で売るというのでは生き残れないと思っています。工房が被害を受け、仮設工房で制作再開を目指している65軒の工房(取材当初)がどんな技術を持っているのか、国外にも価値を評価してもらえる人たちはいるのか等を調査し、それを日本以外のカルチャーと結びつけることは絶対できるし、今後輪島塗を存続させるためにもそうした活動の必要があると思っています。実際、僕自身が今までそういった方法で生計を立ててきました。

Photography: Yota Hoshi

この地震を機に、伝統ある漆の業界も変革期を迎えているんですね。

桐本

地震の前の事例ですが、Yoshirottenというアーティストさんが自分の作品の世界観と違う色の漆をグラデーションに塗る”ぼかし塗り”の技術と表現にシンパシーを感じてくれたんです。銀座でやっていた彼の展覧会でぼかし塗りを使った作品「SAKAZUKI」をお披露目したら、買ってくださる方がいました。僕がそれを職人さんに伝えたら、「よしやるか!」と木地、下地、上塗りの3名は希望を持って復活してくれたんです。

桐本

2年位前に僕がニューヨーク発のMILAMOREというブランドとコラボレーションして、マザーオブパール(真珠をつくる貝)の貝殻を割って漆で繋いだジュエリー作品を作ったのですが、それはアート作品のような値段で売られていました。海外の仕事の利益率は通常の何倍にもなることがあります。そういった意味でグローバルな思考を持った新しいプロデューサーが必要で、やりとりをする輪島の職人側の窓口は僕ができます。65件の工房が3-4ヶ所に分散して集ったら、技術が急に可視化できる、そんな村みたいな形を僕もずっと夢見てきました。

まだまだ復旧段階で、復興には時間がかかりそうですが、これからの進むべき道が見え始めているようにも感じました。

桐本

そうですね。まだまだやることは多いし仮設という形ではありますけど、楽しみです。

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取材した人

漆芸家

桐本滉平

桐本滉平/ Kohei Kirimoto
漆芸家。1992年、石川県輪島市出身。漆、麻、米、珪藻土を素材とした乾漆技法を用いて「生命の尊重」をテーマに創作を行う。また輪島の作り手たちや国内外のアーティスト、ブランドとの共同創作にも取り組んでいる。

リサーチメンバー

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