アウトドアと被災地支援をつなぐ野口健の活動
登山家の野口健は2015年ネパール滞在中に被災し、ヒマラヤ大震災基金を立ち上げる。その後も熊本や北海道をはじめ、NPO法人ピーク・エイドの代表として、様々な災害に対し支援をし続けてきた。今回の能登半島地震でも、約一万個の寝袋を届けることをはじめボランティアのためのテント村づくりなど積極的な支援を展開していた。登山家としての経験から寝袋やテントの有用性をわかっていた野口ならではの活動だ。長く支援を続けてきたなかで野口はいかにして支援の手段と方法を見つけ、実践してきたのか。物資手配からパワープレイのようにも見えてしまう交渉と実行まで、アウトドアを災害に応用する実践を知る。
野口健(アルピニスト/登山家)
1973年8月21日、アメリカ・ボストン生まれ。高校時代に植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、登山を始める。1999年、エベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。2000 年からはエベレストや富士山での清掃登山を開始。以後、全国の小中学生を主な対象とした「野口健・環境学校」を開校、2002年には環境保全活動などを行うNPO法人ピーク・エイドを設立するなど積極的に環境問題への取り組みを行っている。近年は地球温暖化による氷河の融解防止などにも力を入れている。2015 年 、遠征中にネパール大震災に遭遇。「ヒマラヤ大震災基金」を立ち上げ支援活動を行う。 2016 年 の熊本地震では、避難所としてテント村の設置、運営などもおこなった。著書に、震災支援活動の経験をまとめた『震災が起きた後で死なないために』などがある。
どうやって能登半島に1万個の寝袋を届けたのか
被災地に届けるものである以上、被災者の人がもらって惨めな気持ちになるものであってはいけない
能登半島地震では寝袋を約1万個届ける活動やボランティアのためのテント村開設など、様々な支援をされていました。どんな風に動かれたのか教えてください。
今回の能登震災は1月1日に起きました。冬の非常に寒い時期ですから、まず最初に考えたのは寝袋の手配でした。被災したことのない人にとって、避難所に行けばいろんなものが用意されていると考えてしまいますが、発災直後は、避難所にはほとんど何もない状況です。薄い毛布とダンボールくらい。
報道等でもよく眼にする体育館の避難所の様子と合致します。
支援団体によっては避難所のニーズ調査をしてから動きます。確度を上げるという意味では正しいのですが、今回のような広範囲に被害が出て、現地に行くのも大変だった場合、調査にどうしても何週間もかかってしまう。だから過去の避難所を見てきた経験から真冬の避難所に寝袋は絶対必要だと判断しました。布団では嵩張るし、何千と運ぶことも保管しておくことも難しい。外気温と変わらない体育館では、寝袋だとジッパーを締めることで体温を閉じ込めて暖かいし、畳むとかなり小さくなる。私のNPOピークエイドと災害協定を結んでいる岡山県の総社市と一緒に送ることにして、総社市で記者会見をし、まず寝袋を集めますと発表しました。
自分たちで買うのではなく、集めて持っていくという方法だったわけですね。
3.11やトルコの地震の時も一般の方から寝袋を募集したんです。かなり集まったんですが、ひとつひとつ検品してみると、古かったり、寒さに対して機能が足りなかったりして廃棄せざるを得ないものもありました。被災地に届けるものである以上、被災者の人がもらって惨めな気持ちになるものであってはいけない。寝具は清潔である必要もある。
だから今回は寝袋を集めるけど、個人のものを送ってもらうのではなく、Amazonのウィッシュリスト機能を使って、機能的に足りる寝袋を選んで購入してもらうようにしたんです。1個二万円近くもする寝袋が集まるか不安だったんですが、集まりました。届けるレポートを写真や動画で伝えていって、1月下旬頃にはAmazonリストで買える寝袋の在庫がなくなりました。そこで、コールマンさんにお願いをしました。国内在庫がないということで海外からの入荷をまちました。さらに歌手のASKAさん経由でスノーピークの寝袋も2,000個いただきました。あとはアウトドアショップのむさしの山荘さんにもISUKA の寝袋600個を手配してもらいました。いろいろな人がいろいろなところで同時に動いてくれてました。
社会福祉協議会やNPO/NGOとの連携を大事にする
被災自治体から要請を受けたという形で届けると、地元の避難所の責任者は被災者に届けるという責任が発生する
集めた物はどのように配っていったのでしょうか。
最初の1月中は被災自治体を通したほうがいいということがありました。被災地支援ですごく大事にしているポイントが、被災自治体の首長にまず会う、ということです。そこで自分の活動や寝袋の実績を説明しながら、登山経験からアウトドア用品は災害時に役立つと伝えるんです。体を温めることがいかに大事かと直接話すと、大抵の方は「それは必要です」となります。その上で七尾市や輪島市、珠洲市の方からピークエイドに、寝袋を提供してくださいという要請を出してもらうんです。要請を出してもらいながら寝袋集めを同時進行で進めます。被災自治体から要請を受けたという形で届けると、地元の避難所の責任者は被災者に届けるという責任が発生するわけですね。自ら僕らに要請した以上は、という。
もうひとつ、地元の社会福祉協議会(社協)との関係がとても大事です。現場では社協が「災害ボランティアセンター」を運営しています。私たちがやっている七尾市のテント村も、七尾市の市長から要請を受けた形でテント村を作りました。そして七尾市の社協と連携しボランティア活動を行いました。僕らが集めたボランティアも、七尾市の社協の指示をもとに各地に派遣しています。これは被災地での活動をする上では最大のポイントになります。
自治体でもNPOでもなく地元社協が大切になる。
被災地支援の活動をやっていてわかったんですが、意外と被災自治体はボランティアが来ることに対して構えるんです。一部のボランティア団体が現場で迷惑をかけてしまったり、例えば1か所だけに同じ物資がどーんと届いてしまっても捌けなかったりします。ですから、地元の自治体や社協と連携を取りながら調整をする必要があるんです。地元の人の信頼度はやはり地元行政が一番あります。
たしかにいきなり来た支援者だけでは関係性ができていません。災害現場にはピークエイド以外にもたくさんNPOなどが入っていると思いますが、現場ですり合わせや調整のようなことも行われるのでしょうか。
現場に入ってからは連携することはあります。我々がよく連携しているのは、災害復興を専門にやっている「オープンジャパン」。彼らはほぼどの被災地にも入っていて、その道のプロフェッショナル。情報をもらったり、こちらが手配した寝袋を預けたり、ギブアンドテイクです。能登が落ち着いたらオープンジャパンさんとも災害協定を結べたらとも考えています。さだまさしさんの「風に立つライオン基金」とは、災害協定を結んでおり、今回もラップポンという電動式トイレをピークエイドと折半で購入して届けました。
発生してからは具体的に動くけど、平時から関係性を作ってくってことが大事なわけですね。
ボランティアテント村の必要性とその実現方法
今回のテント村ですが、当初は火災があり、建物被害が大きかった輪島に作ろうと思ったんです。輪島市長に何回かお会いしたこともあったので提案したら、ボランティアの方に来て欲しいから宿泊場所が必要なので、ぜひボランティア用のテント村を作ってほしいと。じゃあテントを集めます、と。提案と同時進行でテント集めも進めていて、マット等含めてテント100張を確保したんだけどゴーサインが出ない。
被災自治体の首長レベルが必要と言っていたのに…
そうなんです。今回異例だったんですが、ボランティアの受け入れを被災自治体ではなく石川県が全部仕切っていました。そのため、県からボランティア用のテント村の設置はNGとなってしまいました。輪島市長も困ってしまった。最初の2ヶ月半は被災地に泊まる場所が本当になくて、能登半島の付け根、金沢市や富山市に泊まって数時間かけて、毎回移動していました。道路状況が悪く移動時間が長くならざるを得ないため、現地での作業時間も少なくなってしまうし、移動自体で疲弊してしまいます。道路工事や電柱、水道とかについての復興作業員も、移動に6時間、7時間かけて往復していたから、実際に作業できる時間は1日2、3時間しか確保できていなかったんです。それなのに、たくさんのボランティアが直接、現地に来ると今以上に渋滞が起きるとの理由で、テント村の設置が許可されなかったのです。ボランティアの人の移動を繰り返すより滞在してもらった方が渋滞が起きにくくなるのに…
進むはずの復興が進まなかった理由は宿泊場所が確保できないことによる移動時間にもあったと。
輪島がだめで改めてテント村の場所探し。七尾市長がぜひテント村を七尾市に設置してほしいとを県に交渉するもやはりNG。ただ七尾市長はそこで諦めずに県にしつこくプッシュし続け、なんとかOKが出ました。市や県を通さず、民間の場所を見つけて勝手にテント村を作ることもできたかもしれません。でもそうしてしまうと地元の社協との連動がうまくいかないことがあるんです。そのためにも自治体を通すことは必須でした。
長く活動されてきたこともあって、市長と直接会うことが叶うのだろうなと思うのですが、最初からそうできたんですか。
僕が岡山県総社市の環境観光大使を務めているのが縁で、ピークエイドと災害協定を結んでいます。総社市長は多くの自治体の市長とのパイプがありますから、支援活動を行う時には多くの市長に声をかけて活動を行います。被災した自治体にもすぐに連絡ができ、支援活動を行うことができます。行政とチームを組むと強いですよ。行政同士の信頼関係があるから入っていけるんです。
転売・保管・愛用 - 支援物資は寄付後どのように使われるのだろうか
寝袋を避難所に持っていって、受け取った被災者が寝袋よりも転売して現金1万円が欲しかったとする。受け取った被災者が寝袋よりも現金1万円が必要だったのなら、それは彼らの助けになるわけじゃないですか。
今回の支援物資は寄付された後、物の動きを把握されているんでしょうか。
避難所にいる人には、避難所にまとめて寝袋を持っていけば渡すことができました。1月、2月で約6700個の寝袋を避難所に届けました。一方で避難所ではなく車中泊を選んだ人、選ばざるを得なかった人もいたり、半壊の家に戻っている人もいたりします。2月に入ると、場所によって宅配便が復活したので避難所以外の自宅などにも直接寝袋を送れるようにもなりました。
そのため、個々で寝袋が必要な人にも送ることにしました。SNSなどを通して、寝袋の要望を申込めるようにしたのですが、毎日、大変多くの問い合わせがありました。被災者の方々から直接連絡が入る場合もあれば、被災した両親のために要望する方もいらっしゃいました。多くの人は、半壊した家や車で寝泊まりをしていて、毎晩寒くて、不安で眠れないという状況でした。毎日毎日、さばききれないほどの要望がくるので、一日も早く送ってあげたいけれど、作業にも時間がかかるし、寝袋も足りなくなるし、スタッフもだんだんメンタルがやられそうでした。
そんな時に、支援物資を転売しているというニュースが報道されました。私たちの支援物資ももしかしたら、転売されるのではないかという不安がよぎりました。避難所に持って行った支援物資は責任者の方にお渡ししたので、問題ないだろうけれど、個人にお送りしているものは調べようがありません。これは考え方次第ですが、例えば寝袋を避難所に持っていって、受け取った被災者が寝袋よりも転売して現金1万円が欲しかったとする。受け取った被災者が寝袋よりも現金1万円が必要だったのなら、それは彼らの助けになるわけじゃないですか。そうであれば、それは仕方がないと考えました。最終的には、1月末から3月初めまで、1か月半で約450件、約2800個の寝袋などを個別に送りました。
風景としても、被災地にテント村が当然のようにあっていいんだなっていうのは、わかってきたところもあるんじゃないかな。
今回のテント村のテントは撤収後どうされるんですか。
熊本の時のテント村は被災者の方のためのテント村で、そこで二ヶ月近く被災家族が生活していました。撤収する時に、みなさんに「もしよかったら今後キャンプで使ってください」と話しました。避難用として使ったけど、状況が落ち着いたら家族で本来の使い方のキャンプに使ってくれたらうれしいなと思ってほぼすべて差し上げました。実際キャンプに行きましたというご連絡もいただいてよかったし、また次いつくるかわからないと不安なみなさんは災害への備えとして持っておいてもらいたかったですしね。
今回のテント村はボランティアの方々のための場所なので、撤収後はピークエイドの事務所がある廃校となった小学校に保管しておきます。
今回は回収、保管して、次の災害の時にすぐ出せるようにしておくんですね。
テント村は場所さえ決まれば、一夜にして宿泊施設ができます。熊本のテント村の時は1日半で600人が泊まれるテント村をつくりましたし、今回も2日間で100張のテントを張りました。被災地のテント村は、実績を積んでいくと多くの方の理解も増えていくと思います。風景としても、被災地にテント村が当然のようにあっていいんだなっていうのは、わかってきたところもあるんじゃないかな。今回、テント村について地元のメディアがかなり紹介してくれたおかげで、多くの人に認知してもらうことができました。
いまの状況では、首都直下型地震や南海トラフ地震が起きたらこの国は終わると思います。戦争で滅びるんじゃなくて、災害で滅びてしまう。
テント100張分はピークエイドが保管するとのことでしたが、自治体側で備蓄しておくという流れはないのでしょうか。
いまそれを強く提案してるんです。イタリアが災害対策で進んでいると言われていて、地震が起きてから72時間以内に避難キャンプを設置するようになっているんですが、大事なのはそれを実施するのが被災自治体ではなくその周辺の無事だった自治体ということです。各自治体が平時からある程度備蓄をしておき、周辺自治体が被災した時にそれをを現地に運ぶわけです。
日本も同じようになるべきだと思っています。寝袋とエアマット、段ボールベッドなどを備蓄しておくべきです。自治体ごと人口に応じて備蓄数は変わると思いますが、数千から1万でいいと思うんです。それが集まれば、あっという間に10万人分の寝袋にもなるわけですから。いまの状況では、首都直下型地震や南海トラフ地震が起きたらこの国は終わると思います。戦争で滅びるんじゃなくて、災害で滅びてしまう。
これだけ頻繁に災害があっても、一向に避難所の様子は改善されません。
海外の災害地や紛争地における避難所やキャンプには、スフィア基準というある一定のルールがあるんです。「災害や紛争の被災者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある」こと、「災害や紛争による苦痛を軽減するために実行可能なあらゆる手段が尽くされるべきである」として、避難者を守るための活動の最低基準が書かれたルールブックが「スフィアハンドブック」といいます。
例えば、トイレは「20人に1つ」や、テントなど居住スペースは「1人あたり最低3.5㎡の居住スペース」などが細かいルールが示されています。海外の難民キャンプなどはスフィア基準に基づいてしっかり基準を満たしています。海外の難民キャンプを転々としてきた国連の専門家が熊本の避難所を見てソマリアの難民キャンプ以下だと言っていました。スフィア基準をすべてを満たせないとしても、日本版スフィア基準のようなものを作って、災害の時に人としてこれらは最低限必要ということを示しておかないと、自治体ごと首長ごとにすごい差が生まれてしまう。これからも毎回ソマリア以下の避難所を繰り返すことになってしまっていいわけがありません。
スフィア基準
難民や被災者に対する人道援助の最低基準を定める目的で、1997年に非政府組織(NGO)グループと赤十字・赤新月運動によって定められた基準。
これからも寄り添い続けるという支援
“もう忘れられた”“見捨てられた”という思いになってしまう。だから炊き出しのコミュニケーションも、「僕たちは忘れていませんよ」というメッセージでもあるわけです。
寝袋支援がひと段落し、ここからはどんな支援を予定していますか?
避難所でお母さんたちとたくさんコミュニケーションを取っていて、その後もたくさん連絡も来るんですが、このところ(取材時5月)よく声が上がるのが、子どもたちの中にちょっと情緒不安定になってる子が増えていると。災害直後は、避難所で落ち込む親を横に子どもたちは非日常を楽しそうにしていたけれど、あれは親ががっくりしている中で子どもなりに気を使って親の前で元気なふりをしているというケースが多いそうなんです。避難所が日常になってきて、子ども達にも精神的ダメージが後からやってくる。
学校の校庭や体育館など、普段遊んでいた場所が避難所として使われていて遊べないという話も聞きました。
そうなんです。それで例えば「一緒にキャンプをしてくれないか」とかそういう相談が来てるんです。そういう子どもたちのケアもこれからはしていきたい。6月も近くなって家屋の解体、撤去は専門業者が請け負うことになっていきます。我々のような団体ができるレベルの復興支援は、具体的なものから心のケアやそういったところのフェーズに入ってきてるということです。
炊き出しも食べ物を提供する支援ではあるんですが、それ以上に触れ合いなんですよね。みんなで一緒にご飯を食べて、お酒を飲みながらコミュニケーションを取る。今回の被災地は本当にボランティアがいなくて、メディアの扱いも少ない。そうすると現地では“もう忘れられた”“見捨てられた”という思いになってしまう。だから炊き出しのコミュニケーションも、「僕たちは忘れていませんよ」というメッセージでもあるわけです。寄り添うってそういうことなんじゃないかと思います。
お話を伺った人
アルピニスト/登山家
野口健
アルピニスト/登山家
1973年8月21日、アメリカ・ボストン生まれ。高校時代に植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受け、登山を始める。1999年、エベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。2000 年からはエベレストや富士山での清掃登山を開始。以後、全国の小中学生を主な対象とした「野口健・環境学校」を開校、2002年には環境保全活動などを行うNPO法人ピーク・エイドを設立するなど積極的に環境問題への取り組みを行っている。近年は地球温暖化による氷河の融解防止などにも力を入れている。2015 年 、遠征中にネパール大震災に遭遇。「ヒマラヤ大震災基金」を立ち上げ支援活動を行う。 2016 年 の熊本地震では、避難所としてテント村の設置、運営などもおこなった。著書に、震災支援活動の経験をまとめた『震災が起きた後で死なないために』などがある。
この記事の著者
good and son
山口博之
FRLエディトリアルディレクター/ブックディレクター/編集者
1981年仙台市生まれ。立教大学文学部卒業後、旅の本屋BOOK246、選書集団BACHを経て、17年にgood and sonを設立。オフィスやショップから、レストラン、病院、個人邸まで様々な場のブックディレクションを手掛けている。出版プロジェクトWORDSWORTHを立ち上げ、折坂悠太(歌)詞集『あなたは私と話した事があるだろうか』を刊行。猫を飼っているが猫アレルギー。
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