Correspondences 03

かたちになる前の世界と遊び、
応答からかたちを生む

2026.07.28 Tue

小松千倫が分け入る「Correspondences」

大画面に広がる、夜明け前の海辺。波音のなか、全身にLED球をまとった人影がひとり立ち続け、その光は朝が満ちるにつれ自然の光へ溶けていく。見ているとその記憶に吸い込まれそうになる、その情景の作り手が、小松千倫である。

2026年6月1日〜22日、Goldwin Kyotoで開催された展示「Correspondences #1 SUNAKI × Kazumichi Komatsu Exhibition Waiting | まつこと powered by Goldwin Field Research Lab.」。建築を起点に領域を横断するSUNAKIと、音楽家・美術家の小松千倫が、それぞれの視点から「Correspondences(コレスポンデンス)」を解釈した。身体、光、音、書物、場所、そして自然が互いに応答しながら変化していく空間である。企画・キュレーションを手がけた砂山の狙いは、前回の記事「物質と情報のあいだ、制御不能な『他』との応答」
に詳しい。

今回インタビューする小松千倫(以下、小松)は、京都を拠点とする音楽家、美術家、DJである。音や光を扱い、海外の複数レーベルからの音源発表、大阪中之島美術館での個展、金沢21世紀美術館でのグループ展のほか、数々のアーティストとの制作・パフォーマンスを重ねる。YouTubeSpotifyで制作プロセスごと発信し、ギャラリーやライブハウスで即興的な実験も行うなど、領域を横断し続けている。メロウな電子ポップもあれば、街の営みを切り取り並べた実験的映像もあり、その射程が本当に一人の人間のものかと疑いたくなる。小松らしさを掴もうとすると、鰻のように手元からするりと抜けていく。

それでも彼の作品は、どこか「エモさ」に満ちている。そのエモさはどこから来るのか。尋ねると、「遠い系だから」と返ってきた。既存の文化や記号を素材にする「近い系」に対し、自身は花火や海、星など、かたちになる前の現象との距離を測ってつくる「遠い系」だという。その距離感は、完成した作品より制作の過程にこそ宿る。「制作の時間の中にいる時が一番ピークで、作品という形式には究極的には興味がない」と言い切る小松にとって、エモさとは、そのプロセスが表面に滲み出すものなのだろう。

作品を「完成品」とは見なさない——この姿勢は、哲学者エリー・デューリングの「プロトタイプ論」に通じる。作品とは到達点ではなく、試作(プロトタイプ)のように次へ開かれたプロセスの一段階であり、そこで得た手応えが次の制作を呼ぶ。この「つくることが、次につくることへ連なっていく」感覚は、人類学者ティム・インゴルド(以下、インゴルド)が掲げるCorrespondences(コレスポンデンス)、すなわち応答のあり方とも重なっている。

以下では、本展の《Big Wave Coming》と《光年》、そして2026年に高知県・須崎市のアーティスト・イン・レジデンス「現代地方譚13 風立つところ」で発表された《貝殻式探波者》を手がかりに、小松の考える「応答」を読み解いていく。

環境ごと、聴く

Goldwin Kyotoへの出展は、砂山の誘いから始まった。その頃、友人のアーティスト船川翔司さんがイギリスでインゴルドに会い、小松自身もカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』を読んでいる最中だった。展示テーマとの不思議な縁を感じ、参加を決めたという。

Harsh Listening 2 at LEESAYA 搬入中の小松(以下、モノクロ写真全て)

ちょうど僕が選書させていただいた、カレン・バラッドの『宇宙の途上で出会う』を読んでいて。ティム・インゴルドと関係するだろうと。独立して存在している『もの』があるというより、ある環境の中の出来事の只中で、主体や装置や意味の境界が、その都度切り分けられて出現してしまう——そういう考え方だったので。(中略)『近いことを考えていらっしゃるんだな、みんなも』と感じたんです

小松がインゴルドを意識したのは、2007年の論文「Against soundscape(Ingold 2007)」だった。友人のアーティスト土井樹さんから紹介されたこのアンチ・サウンドスケープ論は、音の捉え方を根本から変えるほどの衝撃だったという。音とは、独立して切り離せるものではない——という転換である。

音を理解するとき、例えば自分が地面にどう立っているか、どんな姿勢か、上空にどんな鳥がいてどんな風が吹いているか——あらゆる副次的な環境、周囲の包摂された環境があってはじめて『サウンド』は成立している。それを、モダニスティックに切り取ってしまう『スケープ』という言葉との組み合わせを、批判しているのかなと理解しています

話は「波」へ移る。超音波や超低周波音、海の波の周期、地球の自転、異なるスケールで拡散して収束するフリークエンスもまた「波」の一部だ、と小松は捉える。

2025年12月、シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]の特別企画「Sound Atlas #1『極地からの音』」は、人間の耳に聞こえない超低周波音(インフラサウンド)から着想し、小松が友人らと企画・制作したパフォーマンスだった。こうした経験を経て音を「波」のイメージへ拡張した先に生まれたのが、本展の《Big Wave Coming》である。

 

海がもたらす両義性

《Big Wave Coming》は、小松が地元・高知の海岸で行ったパフォーマンスの映像だ。まず、本展の紹介文を引く。

LED球をまとった全身スーツの身体が、夜明け前の海辺に立ち続けます。人工の光は暗闇のなかで一時的に輪郭を持ちますが、夜明けとともに自然の光に静かに包み込まれていきます。ここでは、自然を眺めるのではなく、光の変化のなかに身体を置き、環境との関係が変わっていく時間を受け取ることが試みられています。

タイトルの「Big Wave」には、南海トラフ地震への想起があるという。もし津波が襲えば、生家は完全に水没する。そんな巨大なフリークエンスの途中に、自分は常にいる——。

Big Wave Coming at VOU bldg. / photo : Rin Naruse
Big Wave Coming at VOU bldg. / photo : Rin Naruse
Big Wave Coming at VOU bldg. / photo : Rin Naruse

制作のきっかけは、2024年8月8日16時43分頃に宮崎県沖で起きた日向灘地震だった。小松はこのとき、地元・高知の海に入ろうとしていた。警報が鳴り、地元の消防団から避難を促されたヒヤリとする経験。概ね100〜150年周期で発生する南海地震のリスクと共にあるこの土地で、その記憶を改めて呼び起こす出来事だった。

こうした災害について、小松は皮肉めかして語る。ずっと『待ってる』って感じです。『待ってる』わけじゃないけど『待たされてる』みたいな(笑)
小学校低学年の頃から、布団の横に、ビニール袋に入れた靴をずっと置いていて。(地震が)発生したときにガラスを踏まないように、と。『忘れているけど気にはしている』みたいな状態があると思います。高知とか、あのあたりに住んでる人は

地震や津波という巨大な存在を、日常のどこかで「気にかけている」。その心の持ち方は、小松がロームシアター京都のウェブマガジンに寄せた「出来事たちの充満のなかで」にも通じている。このレビューには、「待つこと」への思いが詰まっている。台風が近づくと低気圧で体調を崩し、外に出られずただ待つしかない——そんな経験を回想しながら、小松は「待つこと」によって「能動」と「受動」の区別が複雑になる現象に触れる。

そういう感じが台風にはあって。急に消えたりするし、意外と天気が良くなって、明日休みだと思ってたら行かなきゃいけないとか。自分の能動性、自分の行為を組み立てることが、そもそも機能しない時間なんですよね。何でもパフォーマンスに紐づける現代のありかた——『タイパ』『コスパ』の対極にあるというか。パフォーマンスが崩壊する、成りゆかなくなる時間だなと

待つとは、能動でも受動でもない、第三の構えなのだ。自ら行為を組み立てるのでも、ただ流されるのでもなく、宙づりの時間に身を置くこと。それ自体が、環境への応答の入り口になる。

筆者自身も、故郷で豪雨災害を経験した。自然を前にして行為を組み立てられない、あの「どうしようもない時間」には深く同調する。圧倒的な自然の脅威を認めつつも、冷静で客観的な小松の姿勢が現れているのが、《Big Wave Coming》の制作日誌の一文だ。

制作日誌 ⭐︎26  海は私にとって美しい場所ではなく、繰り返し行われる避難訓練の場所、台風のたびに荒れ狂う恐ろしい存在、地震のたびに必ずやってくる津波から身を守るための避難塔を備えた、信じられないほど厳しい未来像をすでに思い起こさせる場所のままだっただろう。そのイメージは粉々に砕け散る。遠くから容赦なく押し寄せる波は、これから起こることを現在の中に位置づけ続ける。揺るぎない一つの方向が示され、その連続性が確証される。ある方向から来るものは必ず来る。

小松は、「制作とは相互作用のなかで自分自身を固定しないためのエクササイズ」だと考えている。《Big Wave Coming》でも、制作を通して自身の「海」のイメージや機能は変容していった。小松らしいのは、「ネガティブがポジティブになった」という分かりやすい書き方をせず、その両方を同時に飲み込む覚悟として記していることだ。

地震が来ることは、人間にとって絶対ポジティブじゃない。良しとはしてない。ただ、両義的なものだとは思っている。避けがたく、絶対いつか来る。そうしたら僕の実家もなくなるかもしれない。でも、かつてなくなった場所に誰かが町を作って復興してきたはずで、そういう大きな時間軸も考えないといけない。そういう時に、両義性のような考え方を取らざるを得ないのかなって

来るものは、必ず来る。良し悪しをともに波のなかに置き、人間中心主義の外から引き受ける小松の「波」は、「人間は自然という不条理で大きなものと悪戦苦闘してきた歴史を忘れるな」というインゴルドの、「どこかすごく冷たい視点」を持ったメッセージとも重なる。

光る人の系譜

まだ触れていないものがある。《Big Wave Coming》に登場する、光る人らしきものの存在だ。
これは何なのか。
そう尋ねると、小松はニュートラルに、二つのインスピレーションを挙げた。

一つめは、田中敦子の《電気服》。関西を中心に1950年代から起こったアバンギャルドの美術ムーブメント「具体美術協会」の一人が田中敦子で、《電気服》は高松市立美術館に収蔵されている。

いろんな意味が読み解けるんですけど、僕はすごく感動して。お会いしたことはないんですけど、常に死を覚悟してパフォーマンスしていたんじゃないかと。直列で100ボルトの電球が全部つながっているので。今なら電池でいけるけど、当時は管球と電球で、大量の100ボルトが走っている。漏電すれば即死する。その究極の状態で身体を防具化するのが、めっちゃかっこいいなと

二つめは、フルクサスの一員でもあった塩見允枝子の《event for the midnight》。作品の指示が音楽のスコアになっており、それに従ってパフォーマンスが行われる。金沢21世紀美術館の展示で塩見と共演した際、小松からこの「光る人」との共演を提案したという。

1963年の作品で、one light、five tones、smileを0時から0時5分までやる。このone lightのために電気服を使った——というのが、作る上での文脈的な意味だったんです。そこから、この『光ってる人』を単体でオモロいなと思って、いろんなところで光らせています

「オモロい」と表現するように、小松は芸術史の名作に敬意を払いながらも、その積み重ねを現代と重ねたときに立ち上がる現象として、自作を軽やかに捉えている。意味を込めすぎない。

京都・浄土寺のライブハウス「外」で行われた《光年》の初演にも、その空気がある。光る小松が観客を連れて夜の浄土寺を練り歩く。手元のラジオからは「外」で配信される朗読が流れ、遠ざかるほど言葉はノイズの海に沈んでいく。

《光年》を通して《Big Wave Coming》を見ると、あの人らしきものは、小松というより一つの「光る生命らしきもの」に見えてくる。現象の一つ、環境の一つ、相互作用によって自然に現れた生命の流れ。小松が別の誰かにすり替わっても成立する、入れ替え可能な存在だ。

ここまで《Big Wave Coming》《光年》から小松の制作の原点をたどってきた。ここからは、須崎の《貝殻式探波者》を軸に、「応答」という言葉の豊かさへ踏み込む。

静けさが立ち上げるもの

須崎市は高知県の沿岸に位置する人口2万人ほどの町だ。2014年からアーティスト・イン・レジデンスが行われており、小松は2026年の「現代地方譚13 風立つところ」に参加した。アーティスト濵田明李さんからの紹介だったが、須崎は初めての土地ではない。幼少期から湾で釣りをし、フィールドレコーディングに訪れてきた場所だった。

その須崎で制作した一つが《貝殻式探波者》である。流木やサーボモーターを組み合わせた縦長の構造物に貝殻を取り付け、外部の音——来場者の足音、遠くの電車の音など——を拾うと、その方向を健気に向く装置だ。

制作の意図を聞くと、まず着想の背景である「音の存在」の話から始まった。数多くの会場で展示してきた小松が気になっていたのは、音の越境性だ。幕や壁を立てても音ははみ出し、環境への知見のないキュレーターが乱暴に並べれば、その悪影響は計り知れない。だからこそ、音を中心とした「波的な存在論」で空間を考えるとよいのでは、と小松は言う。

人とか、見えるものの存在の輪郭って、触れる・見えるということに閉じがちだけど、視覚障害のある人にとって音の解像度は僕らと違って、フォルムで捉えていたりする。(その人が遠くにいても)『遠くから声が聞こえた』という段階から、外側の輪郭を持つボリュームとして立ち現れる。そういう他者の捉え方ができると、もっと優しくなれるし、コミュニケーションも取りやすいんじゃないか、と

つまり、足音が聞こえた時点で、そのアイデンティティは環境のなかに立ち現れている——音だけの段階で存在を認めるものをつくりたかった、と小松は語る。
実際、須崎は静かな町で、数百メートル先から鉄道が近づく音が聞こえる。その音がすると「誰かが帰ってきた」あるいは「誰かが町を出ていく」という認識が生まれる。音だけで存在に気を配り続ける《貝殻式探波者》は、寛容でとても優しい生命体のように思えてくる。

反射ではなく、応答を

《貝殻式探波者》の特徴は、音が「持続」したときに反応することだ。当初、小松は全ての音に反応するプロトタイプを作っていた。だが、全てに過剰反応すれば計算が追いつかず、装置は動けなくなる。その実感を、小松は人間の感覚に近いと表現する。

人間も、周りで起こる全部の音に反応していると感覚が失調する——逆に、何一つ反応できない状態になると思うんです

私たちの生活でも、雨や車の音より人の声が優先して処理される。即座にではなく、時間のゆとりをもって実装することで、装置はようやく少しずつ「聞く」ことができる。小松は自身のXでもこう記している。

この視点は、本展の「応答」と重なる。「応答」は、刺激に反応してしまう「反射」ではない。思考を経てリアクションを選び取る姿勢である。小松は、哲学者アンリ・ベルクソンの時間論、なかでも研究者・平井靖史『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(青土社, 2022)のマルチ時間スケール(Multi Time Scale:MTS)との類似を語り始めた。

MTSとは、世界に直線的な絶対時間が流れるのではなく、大小の時間スケールが重なり合って共存しているという考え方だ。

時間の感じ方が人によって違う——これを「横」の流れと呼ぶ。ベルクソンの独自性は「縦」にある。速さの異なる複数の時間が、一人の中に同時に積層して流れるとみた点だ。「痛い!」という一瞬の知覚、一つの会話、一日の気分、人生を貫く「自分」という感覚——これらの層が、過去の記憶としてではなく、いまこの瞬間を成り立たせるために同時に働いている。小松は、人がこの積層によって、「人生ってこんな感じだよな」という未来まで含んだ「概観」として自分を保つことに感銘を受ける。

いろんなレイヤーがあることこそ、複雑な知性が生まれる土壌だと考えると、この層が高次で長くなるところにこそ、応答という言葉が持つ複雑な豊かさの鍵があるんじゃないかなと

人間のコミュニケーションにも、この時間の妙技が見え隠れする。前の発言を踏まえて言い方を変える、相手が話す最中に思考を先走らせる——。その最中の時間を俯瞰し、即座に反応しないあり方こそ知性であり、相手と自分の時間が入り混じる場こそ、コレスポンデンスと言えるのかもしれない。

待てること、という力

ここまでの流れを踏まえると、展示の副題「待つこと」の意味がじわりと染みてくる。切り取られた短尺動画、過激なSNSのコメント、フェイク画像。無意識の反応がすれ違い、虚構の摩擦を起こす現代。反射を煽るアルゴリズムに満ちたメディアの隆盛を思えば、「待てること」は一つの知性のあり方かもしれない。

小松もまた、現代を生きる人だ。それでも、時間の軸を取り戻すために、制作の時間の貴重さを重んじる。

「人って、同時に色んなことをやってるじゃないですか。メシ作らないと、買い物に寄らないと、とか。それが常に同時に走っている。それを一度切り替える——『そんなことしてる場合じゃなくね?』みたいな。そういうモードを取り戻すためにも、コレスポンデンス……待つことって、重要な考え方ですよね」

この「待つ」という言葉の豊かさは、「現代地方譚13 風立つところ」で制作したもう一つの作品《まちのあかり》にも表れている。住民や地元の電気屋の協力で集めた非常用の懐中電灯を、タイマー式に改造。灯台を模し、17時から23時までの毎正時に5分間、時報とともにライトが点滅する。技術の発展でお役御免となった古い懐中電灯たちを、小松は「待ち続けてきたものたちを光らせる」と表現した。

City Lights at Susaki Seiei Building 4F. / photo : Yosaku Takahashi、Yuki Yokoyama、Itsuhiro Osawa

環境、知覚、そして待つこと。小松の考える「コレスポンデンス」が現代を生きるうえでどう重要かを改めて聞くと、身体の捉え方についてのユニークな答えが返ってきた。

ある自然のなかに放り込まれると、常に囲まれている環境との応答のなかで、自分がリニアに変わっていく。知覚にも時間にも幅があるから、そのなかで自分の立ち位置を限定せずにパーセプションできる状態にあるか。(中略)いろんな時間の感覚にアクセスできるよう身体をチューニングできるか——(コレスポンデンスって)そういう感じなんじゃないかと思います

気を抜くと、時間の流れの速さばかりが目につく現代。だが、反射に流されず、複数の時間を行き来しながら、自分の立ち位置をそのつど選び直せるか——その身体性こそが、小松の考えるコレスポンデンスである。

自信過剰に世界と向き合う

では、その身体性はどうすれば手に入るのか。自然物も人工物も分け隔てなく想像力を広げ、コレスポンデンスを見出す感性は、どう身につくのか。最後にそう尋ねると、小松は笑って「自信過剰になってみることかも」と答えた。

「何を見ても『自分で作れるんじゃね?』って思ってみる。そうすると、素材の時間の中に入ったりできるんですよ」

『かたちは思考する:芸術制作の分析』(平倉圭, 2019)を引きながら、自分も作り手として身体をシミュレーションしてみることに近い、と小松は言う。「完成されたものをそう捉えない」「自分も介入できるかもしれない」——そんなスタンスで対峙することは、この時代に失われつつある、重要な示唆だろう。

副題の「待つこと」は動名詞である。変化して物体になり、そこからまた変化し続ける——流動的な関係性を映す言葉でもある。時間の流れが速い現代だからこそ、固定的に留まることを是とせず、俯瞰して流れをみながら、自らその時間の中へ入り込んでいく。そんな応答のあり方が、いま求められているのかもしれない。


Correspondences #1
SUNAKI × Kazumichi Komatsu Exhibition
Waiting | まつこと
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この記事の著者

リサーチャー/プロジェクトマネージャー

SHINYA KUNIHIRO

デザインと人類学のバックグラウンドを活かしながら、山岳文化と辺境音楽に関するプロジェクトの企画・設計・実施を行う。

リサーチメンバー

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