Correspondences 02

物質と情報のあいだ、
制御不能な「他」との応答

2026.06.02 Tue

SUNAKIがまなざす「Correspondences」

いま、京都の街の「裏側」ともいえる六角エリアで、一つの実験が始まろうとしている。Goldwin Kyotoで開催される、SUNAKIとKazumichi Komatsuによる展示だ。


Correspondences #1
SUNAKI × Kazumichi Komatsu Exhibition
Waiting | まつこと
powered by Goldwin Field Research Lab.

ゴールドウインは、「人を挑戦に導き、人と自然の可能性をひろげる」というパーパスを掲げています。ここでいう自然とは、人間の外側にある資源として利用し尽くす対象でも、不可侵のものとして遠ざける対象でもありません。人と自然が切り離されず、互いに関わり合いながら存在している世界を、どのように捉え直せるのか。その問いは、これからのものづくりや実践を考えるうえでも重要な視点になるはずです。

人類学者ティム・インゴルドは、生を、世界と応答しつづける過程そのものとして捉え、そのあり方を「Correspondences(コレスポンデンス)」という言葉で示しました。それは、あらかじめ分かれたもの同士の作用ではなく、関わりのなかで互いの存在がかたちづくられていく状態を捉えるための視座です。

Goldwin Field Research Lab. は、人と自然のあいだに立ち上がる知覚や実践を、リサーチと表現の両面から探っていきます。本企画は、その最初の試みとして、「Correspondences(コレスポンデンス)」という視点を手がかりに、人と自然の関係をあらためて考えるものです。Goldwin 京都店では、SUNAKIの砂山太一氏とKazumichi Komatsu氏による展示を開催し、それぞれの思考と制作を通して、この問いをひらいていきます。

インゴルドのCorrespondencesを考えるとき、原始的な技術を紹介する本のどこかにあった一節が思い出される。人間は、罠に獲物がかかるのを待つなかで時間を見出した、という話。罠は、動物を捕らえるための道具である以前に、その動きや習性、通り道、かすかな気配を読み取りながら、環境の中に置かれ機能する。追う、投げる、打つといった身振りは、ここでは直接動物に向けられない。それらは、草むらや道の端に残されたひとつの形へと置き換えられる。その形は、ただちに結果を生むわけではない。何も起きない透明な時間のなかで、静かに作動しつづける。

本展《Waiting | まつこと》では、待つことを通して、世界との応答が時間のなかで少しずつかたちを成していく様子を捉え直したいと思います。Kazumichi Komatsuの《Big Wave Coming》では、LEDの電球がついた全身スーツをまとった身体が、夜明け前の海辺に立ち続けます。人工の光は暗闇の中で一時的に輪郭を持ちますが、夜明けとともに自然の光に静かに包み込まれていきます。ここで起きているのは、自然をただ眺めることではなく、光の変化の中に身体を置き、環境との関係が変わっていく時間を受け取ることです。

Goldwin Field Research Lab.のフィールドレコーディングをもとにKomatsuが構成した音響は、異なる場所、異なる時間に録音された環境の断片を、会場のなかに重ね合わせます。SUNAKIは、Komatsuとの選書をもとに、テキストだけの対話劇を制作しています。会場で本を読み、音を聴き、映像を見ることは、それぞれ別の体験でありながら、同じ問いへとつながっています。目の前にあるものをすぐに意味づけるのではなく、場所、時間、身体、自然のあいだにある関係が、少しずつ立ち上がるのを待つこと。そのような経験を、本展はひらこうとしています。

Correspondences #1 としての本展は、身体、光、音、書物、場所、そして自然が、互いに応答しながら、ひとつの状態として変化していく場をつくろうとする試みです。

砂山太一

この展示において、何かの「意味」や「納得感」を求めて足を運んだ者は、裏切られたような、突き放されたような、ある種のショックを浴びるかもしれない。そこにあるのは、光のうつろいや、人工知能によって生成された自律的な言葉の断片、あるいは誰かが山の中を走る微かな息遣い。

この展示、そして本連載のテーマである「Correspondences(コレスポンデンス)」。近代人類学に大きなパラダイムシフトをもたらした巨匠、ティム・インゴルドが打ち出したこの概念の解釈は、一つでも、一様でもありえない。だからこそ、この言葉の捉え方を通して、まずはこの展示の企画を手がけたSUNAKIの砂山太一という人間の思考の軌跡を辿ってみたい。彼はアーティスト、プログラマー、建築家、そしてキュレーターや批評家といった複数の肩書きを横断して活動する。そのどれか一つに固定されることを拒んでいるようにも見えたが、その根底にあったのは、変容する世界への一貫した「態度」であった。

彫刻とコード、その間にある「他」という存在

砂山 太一 (Taichi Sunayama)

建築家・キュレーター・アーティスト・プログラマー……僕の肩書きはたくさんあるんですね。それぞれはバラバラに見えるかもしれないけれど、関心の核にあるのは、この世界がどのように成り立っているのか、そして、その世界とどのように向き合えばよいのかということです。建築をつくることも、展示を企画することも、作品を制作することも、コードを書くことも、僕にとってはすべて、その問いに近づくための方法です。

砂山はそう語る。かつて学生時代には彫刻を学びながら、同時にプログラミングに没頭した。一見対極にある「彫刻すること」と「コードを書くこと」は、彼の中では地続きの現象として立ち現れていたという。

彫刻は、木や石のような素材に触れ、その性質と対話しながら形を変えていくプロセスが面白いと思っています。一方でプログラミングは、世界の仕組みや原理、あるいは摂理のようなものを、コードによって構築し、操作していく行為です。

一見すると、物質を扱うこととコードを書くことはまったく違う作業に見えるかもしれません。けれど僕にとっては、どちらも物事の成り立ちにある「原理」を探究する、地続きの作業なのです。
彫刻では、同じ木であっても、場所によって硬さや繊維の向き、割れ方が違います。こちらが手を加えると、素材はその場所ごとに違うリアクションを返してくる。つまり、素材は単にこちらが制御する対象ではなく、こちらの意図とは別の応答を返してくる存在です。

コンピューターも同じです。コードを書いていると、バグやエラー、あるいは乱数を使うことで自分が意図していなかった挙動が必ず出てくる。もちろんそれは修正すべきものでもありますが、同時に、自分では思いつかなかった構造や線を見せてくれることもある。

そうして、自分の意図だけでは制御できないものと応答しながら、そこから形を立ち上げていく。そういう意味で、どちらも『他者』との対話に近いものだと思っています。

SUNAKIも、複数のメンバーがそれぞれの関心、技術、身体感覚を持ち寄りながら動く共同体として活動しています。そこでは、あらかじめ定まった答えに向かって役割を分担するというより、不安定で捉えがたい対象を、複数人で抱え、運び、応答しながら形にしていくプロセスが重視されています。

砂山が、アーティストや建築家や研究者の肩書をもつ寺岡波瑠、木内俊克らとともに展開するコレクティブ 「SUNAKI(砂木)」のプロジェクトを見渡すと、彼がいかにデジタル上の「正確さ」ではなく、そこからこぼれ落ちる「ノイズ」や「エラー」、予期せぬ振る舞いのなかに、自分の意図を超えた他者性を見出してきたのかがわかる。

DoubleObject © SUNAKI + centre Inc. + GEMINI Laboratory
https://doubleobject.sunaki.jp/
DoubleObject photo : SUNAKI Inc.
DoubleObject photo : SUNAKI Inc.

たとえば、株式会社のGEMINI Laboratoryとグラフィックデザイナーの田中義久が牽引するCentre Inc.との共同プロジェクト『DoubleObject』(2023)。3Dグラフィックス上で二つのポリゴン面が完全に同じ座標に重なった時、画面がどちらを描画すべきか判断できずに不規則に点滅を繰り返すレンダリングエラー「Z-fighting」がある。通常であれば真っ先に排除するはずのこのバグを、SUNAKIは「仮想空間特有の、我々が感じることのできるデジタルなテクスチャ」として読み替え、職人の手によるシルクスクリーン印刷や特殊な紙加工を経て、触知可能な物理的オブジェクトへと定着させた。

自分以外の何かが、自分の意図を裏切りながら現れる。その「ままならなさ」に抗うのではなく、むしろ「健康的な諦念(Healthy Resignation)」を抱きつつ、設計における寛容さとして受け入れ応えること。それこそが、彼にとっての世界への介入の作法なのだ。

制御するのではなく、応答するための計算

彫刻を専攻したのち、大学院で建築を学んだ砂山だったが、惹かれたのは、いわゆる「建物を建てること」そのものより、物を作る原理としての建築だった。

特に2000年代前半は、コンピューターによる高度な計算技術が登場し、それまで想像でしかなかった複雑な形態が、現実の物理世界に翻訳され始めた時期でもある。

博士修了作品の《Dirty Continuous Timber》(2015)は、「オクテット・トラス」という幾何学的な構造を用いた彫刻的な構造体です。45ミリ角として流通している杉の荒角材には、実際には寸法のばらつきがあります。そのばらつきを誤差として取り除くのではなく、ばらついた木材をばらついたまま使えるようにする。そのための最低限の枠組みとして、幾何学や計算を用いていました。 こうした博士研究での活動が、『物質と情報、あいだ』をテーマとする、その後の僕のクリエイションの原点となっていきました

砂山が代表を務め、建築家の大野友資らとともに2013年から2015年に企画した展覧会『マテリアライジング展 情報と物質とそのあいだ』も、この関心の延長線上にある。この展覧会で問われていたのは、コンピューター内のデータを現実に出力することや、現実の物体をスキャンしてデータとして扱うことの新しさだけではなかった。物質が情報になり、情報が再び物質になる。その往還の中で、人間はどのように意味を見出し、その意味に手触りや質感を与えてきたのか。「マテリアライジング」は、デジタル技術による変換を、そうした創造性の延長として捉え直す試みでもあった。

ここで重要なのは、情報化がゴールではないということだ。イメージをデータにし、データを物質に戻す。そのたびに、何かが失われ、何かがずれ、何かが予期せず立ち上がる。砂山の制作において、情報と物質はどちらかがどちらかを支配する関係ではない。互いに変換されながら、完全には一致しない。その一致しなさの中にこそ、彼の関心がある。

ただし砂山は、情報化を無邪気に肯定しているわけではない。過去のインタビューで彼は、データ化には「何を拾い、何を捨てるか」という権力の構造が含まれると語っている。データは共有可能性を開く一方で、世界を分類し、整理し、扱いやすいものへと変えてしまう。

だからこそ、砂山は「純粋なプログラマー」にはならなかった。データだけで扱える世界には、寛容性がない。物質の世界は、最終的にはアンコントローラブルで、設計通りにはいかない。けれど、その「設計通りにいかなさ」を受け入れることこそが、建築や制作におけるおおらかさなのだ。

この視点は、Correspondencesの理解にも重なる。応答するとは、相手を完全に理解し、管理することではない。理解できないもの、思い通りにならないものを前にして、それでも関係を切らず、自分の位置を調整し続けることなのだ。

ぐにゃぐにゃ動く、巨大な水風船を運ぶ

情報技術は、歴史的に戦争や管理、効率化の技術と深く結びつきながら発展してきた面があります。一方で、人や環境との関係をゆっくりつくり直すような技術、すぐに利益や成果へ結びつかない技術は、どうしても社会の中で優先されにくい。だからこそ、僕はそのカウンターになるような技術の使い方を考えたいと思っています。合理性だけで世界を見ると、より速く、より多くを生み出し、所有し、管理することが正しいように見えてしまう。でも、その先には、暴力的な発想すら効率として説明できてしまう危うさがある。そうではない技術の使い方、そうではない世界との関わり方を持つために、自分は常に裏道のような場所にいたい。一見すると意味がないこと、すぐには役に立たないこと、扱いにくくて回り道に見えることを、実直に楽しんでいきたいと思っています。

作品の制作や展示のプロジェクトを進めているときも、『巨大な水風船をみんなで持っている』ような感覚があります。あるいは、大きなナマズを運んでいるような感覚です。計画通りにいかず、対象はぐにゃぐにゃ動く。その都度、こちらも条件に合わせて身の振り方を変えていく。
でも、それが共同作業の面白さだと思っています。何かを支配したり、完全に制御したりするのではなく、動いてしまうものに「応答」しながら進めていく。その不安定さの中に、制作のリアリティがあるのだと思います。

砂山のクリエイティブにおける特性の一つは、多くが共同制作であるという点だ。アーティストとの共同制作や、企業からの案件にも積極的に携わる。目的も考え方も、世界を捉える視線も、それぞれ異なる。あえて個人制作だけでなく、企業や他のアーティストとのコラボレーションを続けてきたことは、砂山が「応答すること」を通じて作品を作ってきた布石でもある。

あらかじめ固定された目的を持って取引を行う「インターアクション(相互作用)」ではなく、絶えず流動するプロセスの「ただ中(in-between-ness)」で、互いに並行して進みながら、その都度感応し合うこと。インゴルドがチェロの演奏を例に挙げるように、奏者は主体的に弓を引く(doing)と同時に、そこから引き起こされる音楽や楽器の微細な振動を身体で受け止めている(undergoing)。

SUNAKIが手がけた瀬戸内国際芸術祭2022の『小豆島ハウス』では、空き家の改修に伴って失われる予定だった床柱の凹凸模様(傷や経年変化の記憶)を3Dスキャンし、NC切削機によって新しい仕上げのベニヤ板へと「転写(Surface Replication)」した。デジタルという非物質的な回路を通過させることで、過去の記憶を物理的なノイズとして再定着させる試みだ。 また、建築家の門脇耕三がキュレーターを務めた2021年の第17回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示『ふるまいの連鎖:エレメントの軌跡』では、日本の木造住宅を解体して現地へ運ぶプロセスにおいて、輸送できなかった設備や部材という「情報の損失」を、あえて精細な3Dデータから平滑な布地へと出力した「赤いタペストリー」として可視化させた。

完璧な移行も、完璧な複製もできない。そのプロセスの先にある、ままならなさと「共に在ること」の手触り。SUNAKIが求めているのは、システムがもたらすスマートな管理ではなく、こうした不純な応答の連続である。

Shinkenchikusha Shodoshima House photo : Kaori Yamane
Shinkenchikusha Shodoshima House photo : Kaori Yamane
the 3D scanning process for dismantled components © SUNAKI Inc.
[Co-ownership of Action: Trajectories of Elements] photo : Jan Janovsky
[Co-ownership of Action: Trajectories of Elements] photo : Jan Janovsky

ただの石が何かになる瞬間、そこにあるデザイン

ティム・インゴルドの言う『Correspondence(コレスポンデンス)』は、西洋的な『人間による自然の征服・支配』という人vs自然、男性vs女性、のような二項対立的な思想に対する重要なカウンターだと捉えています

人間が目的を持って世界を一方的に改変するのではなく、対象(自然や物質)に自分を合わせ、応答し続けること。砂山のプロジェクトに中山英之と共同制作した《かみのいし》という作品がある。これは自然界にたった一つしかない石をスキャンし、多面体のデータにして紙で再現するものだ。

《かみのいし》では、最初から目的や用途を決めて形をつくっているわけではありません。中山さんからアイデアを聞いたとき、何気なく拾ったただの石をじっと見つめているうちに、それが単なる石ではなく、『この石』として現れてくる瞬間の話をされていました。 どこにでもありそうな石が、代替できない固有の存在になる。こちらの身体や視線を少しずらして、その石の形や重さに添わせてみる。所有したり、支配したりするのではなく、その都度、対象とのあいだで折り合いをつけていくことなんだと思います。

この「ままならなさ」を受け入れる態度が、「裏道」に居続け、オルタナティブを提示し続け、「意味をこえたもの」をまなざし続ける砂山のクリエイティブの根底を貫いているように見えた。それは、意味や成果へすぐに回収されないものを、切り捨てずに見つめ続けること。主流文化のオモテではなく、そのウラとしての場所を選ぶことだ。

種を蒔く、関係が立ち上がるのを待つ

僕が現代美術に惹かれる理由は、世界をすぐにわかりやすく整理しなくてもよいところです。不快さや退屈さ、わからなさ、失敗のようなものも、簡単に意味へ回収しないまま扱うことができる。そこには、効率や成果、合理性だけではこぼれ落ちてしまうものを、そのまま残しておける場所があると思っています。今回Komatsuさんに参加してもらったのも、彼がそうした状況を引き受けて制作に取り組んでいる人だと感じたからです。《Big Wave Coming》には、宙づりの環境の中に身体を置き続けるような時間があります。フィールドレコーディングの音も、映像を説明する背景ではなく、異なる場所や時間の断片を展示空間に重ねるものとして存在しています。一方で、SUNAKIの《Dialogue on Waiting》では、本と本が勝手に会話を始めるような状態をつくっています。僕はその対話の種を蒔くだけで、あとは自分の意図を少し離れて、言葉が勝手に育っていく。そういう自律的なものに、少し主導権を渡してみたいんです。

ハーフミラー越しに映る自分の顔。 自律的に生成されるチャットテキスト。 Komatsuの映像と、微かな息遣いの音。

それらが混ざり合う空間で、観る人は「ああ、こういうことかな」となんとなく感じ、自分なりの解釈を始めてしまう。正解を提示するのではなく、意味を閉じないまま、他者との関わりの中に身を置く。そんな体験の場を、本展示は作ろうとしている。

意味が立ち上がる前に、そこに留まる

ハーフミラー越しに、映像と、自分自身の顔と、チャットが重なって映る。そこにはもう、人間が書いた「正解」としてのテキストは存在しない。いや、「正解」なんてものは始めからなかったのかもしれない。 砂山の仕掛けた空間において、私たちは「これにはどんな意味があるのか」という問いを繰り返し、答えが出る手前の時間を引き延ばしていく。

2025年の第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示《IN-BETWEEN》でも、SUNAKIにとって重要だったのは、何かをひとつの意味にまとめることではありませんでした。青木淳さんのキュレーションは、建物や展覧会を構成する要素を一度分解し、人や物、環境、映像、情報、制度のあいだに何が立ち上がるのかを考えるものだったと思います。青木さんには、展示をわかりやすいメッセージに回収しすぎず、複数の作家や素材や出来事が、それぞれの距離を保ちながら関係しはじめる状態を信頼する感覚がありました。藤倉麻子+大村高広さんの映像にも、都市や建築や身体の関係を少しずつずらし、日常の断片を別の身体感覚として返してくるようなところがあります。

今回のGoldwin Kyotoの展示でも、そうした“あいだ”の状態は意識しています。

意味付けをしない。定義をしない。解決策を提示しない。ただ、そこに在るものと、不純に、かつ実直に応答しつづけること。 それが、砂山なりのCorrespondencesであり、彼なりの世界と向き合うための誠実さだ。

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この記事の著者

エディター/リサーチャー

RINA HORISAWA

オランダでサステナビリティと市民参加型デザインを学ぶ。デザインリサーチを起点に、都市、自然、テクノロジー、ウェルビーイングにまたがる領域で企画・編集・執筆を行う。

リサーチメンバー

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