「珠洲市役所危機管理室」-”公助の限界”と自助・共助-
2024年5月28日~29日の二日にかけておこなった現地フィールドワーク。2日目はまず、珠洲市役所危機管理室職員のお二人にお話を伺いました。
珠洲市は昨年5月にも震度6強の地震が発生しましたが、一部の地域をのぞいて住めなくなるような被害は多くなく、行政としても支援を集中させることができていました。
しかし今回の震災では珠洲市全域に大きな被害があり、道路も海も使えず、物資の配給も行えない中で全方位での支援が求められるという状況となりました。
通常12,000人の住民に対して、珠洲市の各避難所の避難想定人数は1,000人。それに合わせた備蓄を行なっていましたが、今回は正月で帰省中の人が多く、どの避難所も人が溢れかえってしまう状態でした。
結果、食料や衣類がすぐに不足し、1月3日~4日あたりから物資が届き始めるのですが、道路が壊れてしまった地区には車で行くことができず、自衛隊らによるヘリでの輸送となリました。
ここまで全域で被害を受けてしまうと行政だけでは手に負えない”公助の限界”ともいえる状況となってしまうので、自助・共助による住民同士の助け合いでなんとか凌いでいただきました。
行政として市民を守るための活動や備えは当然行なっていくのですが、災害の現場で全てに手を回すことは人的リソースから不可能です。そのため、地域ごとに住民同士の助け合いやフォローが不可欠となり、それを平時から意識・理解していただくことが重要だと考えています。
昨年5月の震災を機につながりのできたNPOが迅速に支援に入ったこともあり、初期の苦境をなんとか乗り越えつつある珠洲市。
しかし発災から5ヶ月が経過してもなお通水していない地域がある他、避難所や仮設住宅に住む市民も多い中、県からは”創造的復興”という言葉が掲げられます。
“創造的復興”は県が決めた大きな方向性です。現場レベルでその詳細を共有されているわけではないので、これから我々がその具体を作っていく段階となります。
例えば、今後の地震に備えて防潮堤を作ることは珠洲の景色を壊してまうことに加えて、荒波だからこそ生まれている産業がそこにはあるため、住民の皆さんは望みません。そういった復興後のイメージをすり合わせるため、複数回に分けて地区ごとの住民と話し合いの場を設けるほか、研究者や高校生、若手経営者、市長が出席する有識者会議も開催していきます。
現段階はあくまで”復旧”フェーズであり、解決しなくてはならないことが山積みの状態ですが、住民の皆さんと”復興”に向けた建設的な話し合いも重ねていきたいと考えています。
民間と行政を繋ぐ「珠洲市社会福祉協議会」
次に訪れたのは、民間と行政の繋ぎ役を担いながら、被災者のニーズを汲み取ってボランティアの受け入れや配置を行う社会福祉協議会(以下:社協)。
珠洲市の社協ではこの1年半の間に3度も災害ボランティアセンターを開設しており、その経験が今回の被災時に活かされていたといいます。
珠洲市では令和4年6月19日(最大震度6弱)、令和5年5月5日(最大震度6強)、そして今回と、ここ1年半の間に3度に渡り災害ボランティアセンターを開設しました。
その際にできた繋がりから、日本の災害支援団体のビッグネームの7割が発災直後から珠洲市に集結することになりましたが、過去の経験から社協や行政の受け皿ができていたので、迅速にその受け入れ態勢をとることができました。
トイレなどの衛生環境や道路状況を整えるのに1ヶ月ほど要しましたが、2月3日から一般のボランティアの受け入れをスタートして以来、現在まで1日も止めずに一般ボランティアを受け入れています。これができているのは珠洲市だけで、これまでのノウハウがあったからこそです。一方で、それだけの支援と経験があったとしても、このような状況下においては自助共助の観点が非常に重要になると考えています。
例えば、自衛隊は制度として食材を自分たちで持ち出すことはできず、行政からの依頼と食材の配給が必要になるため、炊き出しの大部分は民間に委ねられることになります。行政はインスタントのお粥を学校に配布しただけで「給食を出せている」と発表してしまったのですが、それは現場の実情とは異なるため、スープやおかずの配給を民間の団体と連携して行う必要がありました。
このような事態が様々な場面で発生するのですが、行政に悪気があるわけではなく、それだけ余裕のないパンク状態となってしまうため、行政、社協、民間それぞれが役回りを務めながら、サポートし合うことが必要になります。
民間と市役所が直接コミュニケーションを取ることは難しい場合が多いので、その繋ぎ役として我々社協が存在しています。
”繋ぎ役”としてだけでなく、住民のニーズを拾い上げることも社協の大きな役割の一つ。
珠洲市社協ではニーズのデータベース化や、Amazonほしい物リストの活用により運営備品を賄うなど、新しい手法も積極的に取り入れています。
住民のニーズの取りこぼしがないようにするため、水が通るようになって家に戻ることになった方、市外に避難して帰ってきた方を対象に、フェーズに合わせたローラー作戦を実施しています。その際に水が出ているか、お風呂に入れているか、足りないものはないかなどのアンケートを取り、回答をデータベース化して連携団体と共有し、それがその時の復旧フェーズを見立てる判断材料にもなっています。
また珠洲市社協ではペンなどの事務用品をはじめ、暖房器具や椅子などの備品、ボランティアの方の飲み物やお菓子など、あらゆるものをAmazonほしい物リストとして公開して全国から支援をいただいています。なかでもドローンは被災した家屋の屋根の修繕確認に非常に役立ちました。通常は屋根に登って確認するため一軒あたり一時間かかってしまうのですが、ドローンで確認すれば5分で作業を終えることができます。ドローンで修繕が必要な部分の撮影も行なって、それを業者に渡すことで作業の見立てが瞬時にできるというメリットもありました。
しかし、そのような新しい試みにより一部の作業を効率化できた一方で、70名ほどいた職員の半分が退職しているという実情もあります。そのため、現在は全国の社協から集まってくださった方々のおかげでなんとか運営できているという状況です。
現在もニーズが減っているわけではないので、行政、民間と協力しながら、いかに取りこぼさず拾い上げ、対応していくかが課題となっています。
珠洲市のお風呂と、アートの継承を担う「あみだ湯」
珠洲市役所と社協での取材を終え、次に我々が向かったのは、珠洲市で唯一営業を続ける銭湯「あみだ湯」。
店主・新谷健太さんは、2017年に珠洲市に移住して以来あみだ湯の常連となり、先代からの引き継ぎを準備している中での被災となりました。
珠洲市はほぼ全域で断水が続いていましたが、あみだ湯はもともと地下水を使っていたこと、また薪を使うボイラー室が津波の被害を受けなかったことから、配管修理にかかった約1週間で稼働させることができました。
再開初日には被災後初めてお風呂に入れたという方も多く、地域住民で長蛇の列となりました。
現在は地域住民のために珠洲市民限定で火、金、日曜に無料で営業しており、単純に浴場としての機能だけでなく、民宿ふらっと(のとサポ)と同様、地域のコミュニティスペースとして重要な役割を果たしています。
また新谷さんが美大卒という経歴を活かして、美大進学を目指す地元の高校生のために店舗の2階を改築し、美大入試に向けた指導も行なっています。
珠洲市は2017年から『奥能登国際芸術祭』というトリエンナーレ形式の国際芸術祭を開催するなど、アーティストのサポートと育成に注力する地域。そんな珠洲市の文化的側面の未来の一部を、この「あみだ湯」が担っています。
あみだ湯
〒927-1213
石川県珠洲市野々江町5
Tel: 0768-82-6275
いつでも開いている無料商店「特殊支援部隊山ん」
最後の訪問先となったのは、富山県南砺市のたいらスキー場でレストハウスを営む秋山誠さんが、10年以上毎年サーフィンのために訪れていた珠洲市三崎町小泊地区を支援するためにスタートした支援部隊「山ん」。
行政に届けられた支援物資が満足に住民の手に渡っていない状況を改善するため、空き家となった家を買取り、そこを拠点に、友人たちや全国のボランティア団体から届いた水や食料、衣類、生活雑貨などの物資を地域の方が自由に持ち帰ることができる無料商店を運営しています。
この”無料商店”というシステムが他に類を見ないものであるため、議員や行政が視察に来られるほど。秋山さんが東日本大震災の際に2ヶ月間石巻でボランティア活動に従事した経験から、行政の手が届きにくいところを先読みして、1月5日からこの活動を続けています。
珠洲市の海沿い先端部に位置し、住民の多くが高齢者であるこの地域では、発災から5ヶ月を経過してもなお物資を求める方が後を絶たず、我々が取材している間にも何組もの方々が店を訪れていました。
買い取った家屋を自らリフォームし、電力会社に頼らずに電力を自給自足するオフグリッドの状態で生活、運営をしており、自分たちらしい災害復興モデルの一つとしての提案も行なっています。
今後は支援ボランティアとしてだけでなくこの地域に訪れる観光客を増やし、小泊地区を活性化するため、地元住民を雇用しながらの畑の運営やショップの開店、音楽祭の企画も進められているとのこと。12月に先述のスキー場に戻るまでの間、この活動を継続していきます。
手付かずのまま残されている輪島市町野町
今回のフィールドワークにおける全ての取材を終え、帰りの飛行機までの時間に訪れたのは輪島市の中でも特に被害の大きかった町野町。
輪島市と珠洲市の境に位置し、932世帯、約1900人が住んでいましたが、その多くの住宅が倒壊。
復興の文脈で被災地を報道するニュースが増える中、その実情はPART1でご紹介した輪島市・朝市通りと同様に復興と呼ぶには程遠く、復旧にも至っていない、まだまだ支援が必要な地域が数多く残されています。
以上が、わたしたちFRL.が能登、輪島、珠洲で見たものです。
行政機関、社協、地元民、移住者、そして県外からの民間ボランティア。そこには、様々な立場から被災地のために自分たちが今できることを懸命にやり続けている方々の姿がありました。
立場によって異なる意見や想いがあり、コミュニケーションの隔たりにより誤解が生じている部分もあります。しかし彼らが共通して口にしたいたことは「まずは来てみてほしい」ということ、そして「忘れないでほしい」ということ。
メディアで報道されなくなったとしても、被災地ではまだまだ厳しい戦いが続いています。
自分の目で被災地を見ること、被災者の方々と話すこと、そしてそれを家族や友人に伝えていくこと。そうすることに、遅すぎるということはありません。
わたしたちもここでの経験を社内で共有し、企業としてできること、そしてそこで働く一人に人間としてできることは何か、議論を重ねていきたいと思います。
この記事の著者
Goldwin Inc.
神田容佐
ウェブマガジンの編集/ライターを経て2017年入社。総合企画本部マーケティング部所属。DJ/音楽プロデューサーとしても15年以上のキャリアを持つ。