#4 走る身体、考える頭

日本・東京都

2025.06.20 Fri

Research Thema

Imagination of Body Movement

歩くことと走ることの間にあるもの

歩くことと創造性の関係については、これまで多くの書籍やエッセイで語られてきました。たとえば哲学者のカントは、毎日決まった時間に散歩をしながら思索を深めていたといわれています。歩いているときには、ある程度の余裕を持って景色を眺めたり、自分の内面に意識を向けたりすることができ、歩行中にふとアイデアが浮かぶ──そんな経験をしたことがある人も少なくないでしょう。

一方で、走ること、特にスピードを上げていく運動と、思考や想像力の関係については、これまであまり語られてきませんでした。身体の使い方が大きく変化し、心拍や呼吸も高まるなかで、人は果たしてどのように「考える」ことができるのでしょうか。

作家・村上春樹は、著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で「走ること」はむしろ空白を獲得する行為であり、その中に自然と思考が流れ込んでくると述べています。走っているときに浮かぶ考えは、空に浮かぶ雲のように、さまざまな形で現れては流れていく。走ることが、ただのフィジカルな動作ではなく、精神的な余白を生む行為である可能性を示唆しています。

しかし、村上春樹のように走ることが当たり前になった人ではない限り、走り始めると意識や思考は呼吸や疲労感、ペースなど「身体の維持」に引き寄せられていくように思えます。そこでは自由に思考を巡らせる余白はむしろ狭まるのではないか。

本記事では、元競技ランナーで現在はYoutubeやSNSを中心にランニングアドバイザーとして活躍する三津家貴也(みつかたかや)さんと、フルマラソンからトレイルランニングまで幅広いレースに出場しながら、その魅力を発信するランナーの冨井菜月(とみいなつき)さんを迎え、走る最中にどのような思考が生まれているのか、その身体感覚を手がかりに「走る身体」と「考える頭」の関係について探っていきます。

それぞれのランニングスタイル

まずは、お二人が普段どのようにランニングに向き合い、どんなスタイルで取り組んでいるのでしょうか。

三津家さんにとって、仕事としてや競技だけではなく、ランニングはすでに特別なことではなく、日常に溶け込んだ習慣のひとつになっています。

「目標やゴールがあって、それを達成することで自分の成長を実感するのが楽しいんです。また、大会ではみんなでワチャワチャして走るのも好きだけど、普段は1人になれる時間としてリフレッシュのために走ってます。今では歯磨きみたいな感覚ですね。走らないとなんとなく気持ち悪いんです。」

冨井さんも、マラソンやトレイルランを中心に、自由なペースで日々走りを楽しんでいます。

「今日は行けそうだな、という日にふらっと走り出すことが多いです。逆に、しんどい日は無理して走りません。でも、いざ走ると決めたらしっかりやりますし、レースに向けた練習もしっかり組みます。自分で全部コントロールしている感覚があるから、楽しさを保てているのかなと思います。」

お二人とも、「誰かに課される」トレーニングではなく、自分の裁量でランニングを続けて楽しむことが重要だと話します。それが結果的に長く続けられる秘訣になっているようです。

だからといって、パフォーマンス向上に努めていないわけではありません。むしろ、二人はそれぞれのやり方で着実に力を伸ばしています。三津家さんは、学生時代の陸上競技の経験と生理学の知識を生かしながら、「がんばらないランニング」という練習メソッドを作り上げてきました。

「僕は『適切な負荷』を重視しています。追い込みすぎず、疲労をためすぎず、数字を見ながらコントロールする。主観的にきつい練習を無理にやらなくても、フルマラソンのタイムは3年間で30分縮められました。」

冨井さんもまた、楽しさと競技志向の両立を大切にしながら、自己ベストの更新に取り組んでいます。

「しんどい練習もありますが、全部自分がやりたくてやっているので苦じゃないんです。楽しんで続けてきたら、気づけば8年も走り続けていました。」

パフォーマンスの向上には走り込みだけではなくフォームや動きの作り方も重要だと、三津家さんは話します。

“意識性の減速”といってフォームを細かく意識しすぎると逆に動きがバラバラになるんですよね。『腕をこう振ろう』『足をこう出そう』って考えれば考えるほど、動きがぎこちなくなる。でも『お尻を使ってみよう』のように、一ヶ所に意識を置くだけで、全体が自然と連動してくれる部分があるんです。」

冨井さんも、フォームを細かく意識して整えるのはあまり得意ではないと話します。ビデオで自分の走りを見ても「綺麗なフォームではない」と自覚しているそうですが、それでも十分に速いペースで走れています。むしろ、課題を複雑に抱えず、シンプルに「やるべきことを整理してひとつずつ取り組む方が、結果として全体の動きが整っていく」感覚があると言います。

走りながら、思考はどこへ向かうのか?

このようにして真摯にランニングに取り組んでいるお二人ですが、走っている最中はどのようなことを考えているのでしょうか。

三津家さんはこう語ります。

「走っていると、暇になるんですよね。でもその“暇”がちょうどいい。仕事のことや、次にやりたい企画を考えることが多いです。『こんなイベントどうかな』『誰が喜んでくれるかな?』って自然にアイデアが巡っていくんです。オンライン取材を受けたこともありました。」

走っている身体はリズムよく動き続けている一方で、思考は別の方向へと広がっていく──。ある種、身体が自動化すると同時に、頭が自由に思考する状態を、本稿では「二重状態」と呼ぶことにします。

冨井さんも、別の視点から似たような感覚を語ってくれました。

「私は、しんどくなってきたらゴール後のことを考えるんです。『終わったら何を食べようかな』『達成感すごいだろうな』って。そう想像していると、今のしんどさがちょっと軽くなるんです。」

現実の身体は道を前へ進みながら、思考は少し先の未来を思い浮かべることで、苦しさをうまくコントロールしている。それは気の散漫ではなく、自分のペースを安定させるための内なる工夫のようでもあります。

こうした「二重状態」は、他の多くのスポーツとは明らかに異なります。たとえばサッカーやバスケットボールでは、即時的な判断やプレーへの集中が求められ、意識を別のことに向ける余白はほとんどありません。私自身も学生時代にアメリカンフットボールをしていましたが、プレー中に考えごとをするような余裕はまったくなかったことを思い出します。

それに対してランニングは、身体が動き続けているにも関わらず、頭は別のプロセスを進めていける。その並走するような構造は、ランニングという、現代では“スポーツ”のひとつとも捉えられる運動を独特なものにしています。

二重状態が身体のパフォーマンスを向上させる?

このような「二重状態」は、パフォーマンスの維持や向上にも密接に関わっているようです。

三津家さんは、集団で走るとき、あえて先頭に立たずに最後尾を選ぶことがあるといいます。

「先頭にいると、自分の身体に意識が向いちゃうんですよ。『足が重いな』『呼吸が苦しいな』とか。でも、後ろにいると『ただついていけばいい』って思える。気がついたら5キロくらい走ってた、みたいなこともあります。」

走るペースのような身体のコントロールから意識をそっと外すことで、逆に身体がなめらかに動き続ける。他者に意識を向けることで身体の自動化を強化し、パフォーマンスを安定させる例と言えます。

冨井さんも、あるトレイルレースで延々と続く階段の登りを「段数を数える」という行為で乗り越えた経験を話してくれました。

「最初は『何これ』って思ったんですけど、途中から数えるのが楽しくなってきて。『1、2、3……』って数えてたら、最終的には200段くらい登っていました(笑)。」

©︎Kotaro Ozaki

走るという身体運用とは別に、ものの数を数えることでリズムを外部化したことで、苦しさがゲームのような遊びに変わる。その結果、身体はペースを保ちながら自然と登り続けられる。ここでも、「走る身体」と「考える頭」の役割分担がうまく働いているように見えます。

こうした例を見ると、ランニングにおける二重状態は、思考の余白を作る仕組みではなく、むしろ実践的なパフォーマンス維持の技術とも言えそうです。

走ることがDMNを活性化させる?

この、身体は走りながら頭は別のことを考えている「二重状態」。その背景には、脳の働きが関係している可能性があります。鍵となるのが、「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる脳内ネットワークです。

DMNは、私たちが意識的に何かに集中していないとき──つまり「ぼーっとしている」ときに活発になる脳の回路で、自己内省、過去や未来の想像、アイデアの着想など、いわゆる創造的な思考に関係している領域です。たとえば、散歩中やシャワーを浴びているときにふとアイデアが浮かぶのは、DMNが働いているからだと考えられています。

では、心拍数が上がり、身体的な負荷がかかる「走る」中で、このDMNが作動することはあり得るのでしょうか?

ここで一つの仮説となるのが、「身体の自動化」が一定レベルに達したとき、ランニングは思考を妨げるのではなく、むしろ支える行為になる、という考え方です。

たとえば三津家さんのように、走るという動作が生活の中で習慣化され、呼吸やフォームの調整を意識せずとも自然に行えるようになると、身体はリズムに乗って動き続け、思考はその上を自由に漂うことができるようになります。彼が「走っていると自然とアイデアが出てくる」と語るのも、DMN的な状態に入っているからだと捉えられるかもしれません。

ただし、全ての人が意図的に再現できるかといえば、そうとは限りません。

私のような一般ランナーにとって、ランニングはまだまだ「頑張って走る」行為です。息が上がり、脚が重くなると、意識はすぐ身体へ引き戻されてしまう。そうなると、思考を広げる余裕はなかなか持てません。

三津家さんは、自分にとって“ゆっくりすぎる”キロ6分のペースで走ると、逆に身体に意識が集中してしまい、むしろ快適ではなくなると語っていました。スピードを落とせば思考に余裕ができる──という単純な話ではないようです。

一方で、私にとっては、キロ6分やそれ以下のペースでも身体が自然に動くようになることで、思考がゆっくりと立ち上がる瞬間があります。これは、ランニングにおける「DMNが立ち上がるためのテンポ」が個々の熟練度や経験によって柔軟に現れることを示唆しています。

無理をしない、でも自然とスピードに乗れる「ちょうどいいスピード」。そんな「ちょうどよさ」の中にこそ、DMNが働く余白が生まれるのかもしれません。

走ることと想像力、その往復のなかで

ここまで見てきたように、走るという行為には、身体と頭が並行して働く「二重状態」が存在しており、その中に思考や想像力の余白が生まれています。三津家さんや冨井さんのように、ランニングが生活の中に自然に組み込まれている人たちにとっては、走ることが「考えること」と矛盾しない、むしろそれを支える場になっています。

では、こうした思考の状態に入りたいのであれば、「もっとゆっくり走ればいいのでは?」あるいは「歩くほうがよいのでは?」という疑問が湧くかもしれません。冒頭で触れたように歩くことが思考を促すというのは広く知られた現象であり、観察力や内省を促す場としても有効です。

けれども、走ることは、歩くこととは異なる知覚をもたらすのだと考えられます。

歩くときには、風景や周囲の音などの情報を丁寧に受け取りながら、自分の考えを整理していくような感覚があります。つまり歩く時の思考は言語的であり、論理的で、比較的コントロール可能なもののようです。一方で、走ることには“流れに乗る感覚”があります。スピードが上がれば上がるほど、風景は後方に流れていき、視覚的な情報は抽象化されていく。

「トレイルランでスピードに乗って下る時、石や根っこなどの路面の状況は見えてるんですけど、細かく認識してるわけじゃないんですよね。ただ流れていく感じ。足元ではなくもっと遠くの景色を見ていたり、全く別のことを考えていることがよくあります。」と冨井さんは語ります。

©︎鈴木淳平

情報量が減り、注意が外部から内面に向くことで、思考はより澄み渡っていく。理屈を超えた直感的な結びつきが生まれたり、普段なら思いもよらない連想が自然と浮かんでくる。走ることで削ぎ落とされた思考の「余白」に、そうした想像力が滑り込んでくるように思えます。

このように、走ることは、思考や想像力にとって補助的な時間ではなく、それ自体が思考を触発し、支える場になりうる。スピードが上がることで、むしろ余白が広がっていく──そんな逆説的な関係が、ランニングという行為のなかには確かに存在しています。それは決してトップアスリートだけの話ではありません。スピードの大小、距離の長短に関係なく、自分の身体がちょうどよく動き、考える余地が生まれる「ちょうどいいスピード」があれば、誰もがその感覚に触れることができるはずです。

思考を深めるために走る。走ることで思考が深まる。その往復のなかで、私たちは身体と想像力を同時に育んでいるのかもしれません。

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FRL

この記事の著者

Goldwin Inc.

上沢勇人

2019年入社。THE NORTH FACE STANDARDのショップスタッフを経て、2023年よりマーケティング部所属。趣味はロングトレイルやバックパッキング。ここ2年ほどはトレイルランにハマり100mileの完走を目指してトレーニング中。

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