二人のダンス研究者との対話
コンタクトワークショップの先で身体を考える
他者と体の接触と体重の預け合い等を行うコンタクトのワークショップを経て、身体と運動と想像力が他者へも向かうことを感覚できた部分はあった。その経験が、他のダンス経験やダンスを批評的に見る側からはどのように納得感があるものなのか、身体とダンスと想像力についてふたりの批評家、研究者と言葉を交わした。
3DCGやVTuber、アバター、ロボットなどの生命をもたない物たちの身体運用など、身体の複製と流通、そして「踊る体」の消費、媒体化をキー概念にテクノロジーと身体を論じた『踊るのは新しい体』(フィルムアート社)の著者である太田充胤(みつたね)さんは、元ダンサーで現在は医師として働きながら博士課程にも通う研究者。
白尾芽さんは、論文「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」」で、見る−見られるという関係を通じた身体的共感やダンスの社会性と痛みの問題などを論じ、現在は編集者として働きながら、ダンスやパフォーミングアーツに関する執筆を行なっている。
それぞれの体、それぞれの経験、それぞれのダンス観が交わる先に何が見えてくるのか。
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太田充胤(みつたね)
1989年生まれ。医師・批評家。内分泌・糖尿病専門医。旅行する批評誌「LOCUST/ロカスト」編集部。 批評家としての過去の連載に、医療実践と食の接点を論じた「〈食べたい〉をめぐって」(医学書院「看護教育」)がある。2022年より東京大学大学院総合文化研究科科学史・科学哲学研究室博士後期課程に在籍。2025年、単著『踊るのは新しい体』(フィルムアート社)を出版。
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白尾芽(めい)
1998年生まれ。ダンス研究/編集者。ダンスを中心とする舞台芸術や美術について執筆。東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース(伊藤亜紗研究室)修了。修士論文を元にした論文に「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」──イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」『Commons Vol.3』(未来の人類研究センター、2024年)がある。現在出版社勤務。
「物的世界観」と「事的世界観」
まず身体と運動の想像力という言葉からどんなことを考えますか?
別の記事で為末さんが話されていたイメトレをすることでその動きができるようになるというのは、運動における想像力の使い方の典型的なケースですよね。私はストリートダンスをやっていたのですが、イメトレはかなりやりました。イメージの中で踊れない振り付けはやはり踊れないんです。
頭の中でどういうことをやるんですか?
自分の体を頭の中に浮かべて、自分の体が振り付けを踊っているのを引きで見ている感覚ですね。
他者として自分を見ている感覚?
振り付け家の踊りを見て体のイメージを自分の中に流し込み、自分の体が同じ動きをする、という感じかな。舞台のダンス作品を観るときも似ていて、筋肉の動き、テンションのかかりかた、そういうことを自分の体の経験を元に想像しながら観ています。白尾さんに聞いてみたいのは、ダンス経験がない白尾さんがダンス評を書く際、どういう想像力を働かせているんですか?
どうなんでしょう。私は、つねに真剣に見ているというわけでもなくて。
どういう意味ですか?
眠くなったりもしてしまいます(笑)。特に、とても完成度の高いコンテンポラリーダンスの公演とかだと、舞台が美しいタブローのようにできすぎているが故に、私が観ていなくてもいい、という感じがすることがあります。
なるほど、それはおもしろいですね。
舞台上の体と自分の体のあいだで共有できるものがないと思ってしまうときもあるんです。ただそれは環境の問題もあるとは思っていて、たとえば小さめの劇場で観ていたら作品を分節化できて、能動的に何らかのまとまりを見出すことができるのかもしれません。そういうポイントが見えてきた時に、一気にその動きの世界に入り込んでいけるという実感があるんですが、そのポイントが何であるのかはまだわかっていません。
完成されているものって、ある意味でお客さんがいなくてもそのまま成り立つところはありますよね。哲学者の廣松渉に「物的世界観」と「事的世界観」という概念があります。「白い雲」というのは“物”だけど、「雲が白い」というのは“事”で、世界は「白い雲」みたいな“物の集まり”でできてるんじゃなくて、「雲が白い」という“事の集まり”で成り立ってるんだという見方の転換を提案しているんです。ダンスについても、物的に完成されてるダンスと、そこで何かが起こっている事的なダンスがあるんじゃないか。劇作家の山崎正和が「水の東西」という、水を使った表現が東西で違うことについて書いた有名なエッセイがあって、西洋の感覚では噴水は水の彫刻という“物”で、対して日本の水の表現は鹿おどしのような“事”なんだと。ダンスにおいて、何かがそこで起こる、ないしは私がそこにいるということに何らかの意味が持たされていることに白尾さんは興味があるんじゃないですかね。
私が観ていても観ていなくても、何も考えていなくても、その舞台の上で起こることは絶対に変わらなくて、自立したそれがただある。それはダンスとしては一種の完成であり、目指されるべきひとつの地点と言うこともできますが、何か突き放されているような気もしてしまう。ガチガチに作り込まれていても物的な完成度に向かわず、事的に引き受けているダンスもあるはずで、その方が舞台作品を観るという出来事としては価値がある感じがするんです。
踊る自分のキモさと好きに踊るということ
太田さんは、『踊るのは新しい体 複製可能な者たちのための身体論』の中で「身体運用」という言葉を使われています。「運用」は、株の文脈で言えば効果を最大化するみたいな意味で、それをダンスの文脈で使うとすると、パフォーマンスを最大の効果で行うという意味になるのでしょうか。ただ、この本に登場するネット空間上で踊るヴァーチャルな体たち、踊っている“物”たちに、最大の効果とは何かを反省するような自意識はないですよね。
その言葉はかなりファジーです。「身体運用」はたしか哲学者の内田樹が使っていた言い回しで、良いなと思って自分も使っています。内田樹は武道の人、技術の人なので、その体をどう運ぶか、どう使うか、どう使いきるかみたいな文脈で身体運用と言っているんだと思います。だから単に動く、動かす、運動するということとはちょっと違う意味で使っていて、全部が意識的な管理下にあるわけじゃないんだけれども、お金と一緒でうまく運用すると管理できる量や質が増えるみたいな。本の中では、ネット上に露出した自分の体が、うまく運用すると増えていくこととかけて運用という言葉を使っていました。ストリートダンスでは自分の体を、同じ時間、同じ振り付け、同じ空間の制約の中で、いかに効率的、効果的に路上の観客に見せるかということが運用だと思います。
「運用」も見られることを前提としているんですね。本にはインカメラや鏡的なものの話もありましたが、見られている自分を内面化するということがひとつポイントになりそうです。
踊る人って多分そういうものがある。それも想像力でしょうね。鏡が嫌いな人は嫌いで、田中泯が鏡は嫌いだって話をドキュメンタリーで言っていました。
自分を模倣して、それを追いかけているみたいな感じもありそうですね。
そうなんですよ。他者視線の自分を最適化するというのが鏡の役割なので、そこには他者がいて、他者のためのダンスになってしまう。
私はK-POPが好きで、自分もダンスを踊ってみたくなったことがあります。家に大きな鏡がなかったので、鏡を見ずにただ練習して、ひと通り覚えたところでビデオに撮ってみたらめっちゃキモくて、びっくりしました。
それはダンスを始めた人あるあるで、踊る人はみんなが通る道です。やっぱり鏡の前で練習することってとても意味があります。踊りはじめはどうしたってイメージみたいにかっこよくない。それを乗り越えて、自分の頭の中で踊ってるイメージと実際の体の動きが一致してきてようやくうまくなってくる。
踊れているという感覚になる。
踊れている感覚というのは難しくて。映像で撮ったら全然ダメでも、踊れている感覚になることはできる。ここがおもしろいところで、別に振り付けをちゃんとこなせてなくても、ダンスとして楽しい状態はある。なんなら撮らない方が楽しいぐらいまであります。他者の目を入れた瞬間に、そのダンスは全然違う営みになってしまうから。人前に立ってやるダンスと、自分で遊びとしてやるダンスはまったく別の次元にあって、そういう意味でもダンスはダンサーだけのものじゃなく、みんなが踊るもので、それがかっこよくある必要も全然ない。
40代からすると、SNSには莫大な量の上手に踊っている映像があって、それを見ているとこちらはどんどん踊れなくなってしまいます。踊れていない自分のイメージがつらい(笑)
今の若い子たちは下手でも平気で動画を上げますよね。上げてくうちにうまくなったりもします。それはちょっと私の世代でも考えられないですけど、白尾さんの世代はどうですかね、顔出したりとか。
私も中学生でスマホを持ち始めましたけど、TikTok世代ではないですね。
うまくなっていくと言いましたけど、そもそもうまくならなくてもいいわけです。薄暗いクラブで他人から見られているような、いないようなところで1人で適当に踊ってる時とか、家で1人で踊ってる時とか、ダンスはフロアや舞台の上だけじゃなくて、いろいろなところにある。別に家でよくわからない変な踊りをしたっていい。だから、白尾さんは自分のダンスがキモいと言っていましたけど、それでよくて、それがかっこよくないもの、キモいと言わしめてしまう規範こそ疑いたい。もっと好きなように踊っていい、となったらおもしろいなと。
タスクを実行するというダンス
白尾さんは、論文「ポストモダンダンスにおける観客性と「身体的共感」─ イヴォンヌ・レイナーの作品を中心に」で、60年代前半NYのジャドソン・ダンス・シアターのメンバーとしても活躍したイヴォンヌ・レイナー(1934〜)と、同時代のハプニング的な要素が含まれた表現を取り上げています。そこでの問いはダンサーと観客との関係性を探りたかったということですよね。
観客がいないと自律的に舞台作品が完成しないようなもののありようとは何か、の答えを身体的共感に見出したということですよね。
そうですね。ジャドソン・ダンス・シアターは、バレエやモダンダンスに見られるスペクタクル的な性質を批判し、いわゆる日常の動きを「タスク」という振付のアイデアとして導入したことで知られています。ジャドソンなどのポストモダンダンスは、とにかくミニマルであると評されることが多いのですが、確かにそういう面もありつつ、レイナーはそうではないことをやってみた人なんです。人前で動いた時点で、動く者と見る者の間に「見る−見られる」の関係が生まれてしまう。それを前提とした上で、逆に見られることの喜びみたいなものを極限まで試してみたり、観客とダンサーの関係が平等や双方向ではなく、ある種の断絶とも言える距離を抱えた中で何ができるかを考えたりしていました。私は論文内で「選択的に見る」ことについて書いていて、舞台上で同時に何かが起こる中で、観客がいかに能動的に観るものを選択するのかというところも論点になっています。
No to spectacle.
No to virtuosity.
No to transformations and magic and make-believe.
No to the glamour and transcendency of the star image.
No to the heroic.
No to the anti-heroic.
No to trash imagery.
No to involvement of performer or spectator.
No to style.
No to camp.
No to seduction of spectator by the wiles of the performer.
No to eccentricity.
No to moving or being moved.
(「NO MANIFESTO」イヴォンヌ・レイナー)
見ていないものとの距離って話ですよね。
観客は、何を見るか、そして見る代わりに何を見ないかを選ばされる。そのことは、ダンスを見るうえでどうしても全体を見ることができないと思ってしまう自分の実感ともつながっています。
踊ること、踊れることは何を導いていくのか
話をしながらダンスが民主的であることについて考えていたんですが、ポストモダンダンスはタスクというアイディアが有名で、ここからここまで歩くとか、腕を五回振るとか、誰でもできることを振り付けとして課したわけです。それは難しいバレエのターンとかではないので誰でもできるけど、その人の固有の体において出力することが前提とされている。太田さんは本の中で、MMD(MikuMikuDance/プリセットされたキャラクターの3Dモデルを操作しコンピュータアニメーションを作成する3DCGソフトウェアでつくられたさまざまなダンス動画)にたくさん触れられていました。違う体で誰でもできる同じ動きをするのがタスクの考え方なのに対して、MMD的なものは反対で、踊るのはアバターというある種均質な体で、動きだけが違うという状態にあります。しかも流通しているモーションデータを使って、初音ミクなどのヴァーチャルな身体に思い思いの動きが代入されている。それって、体が民主的な物になっているということなのかもしれないなと。
TikTokのチャレンジ系のトレンドはどちらにも足をかけているようでもあります。誰でもできるタスクとしての動きを提供してくれるけれど、それを実行する私の体の固有性は脱色されて、また新たな誰かの体を動かすモーションデータになるとも言える。
TikTokのチャレンジはタスクだという見方もできますね。振り付けというより、タスクとして分解してやっている可能性がある。手を振る、振り返る、何をするみたいにやっていけばできるわけで、タスクの指示書が動画の形で回っていると捉えることができそう。規範ではないノリが規範として機能して流通していくみたいなところはあるかもしれない。ダンスが誰でもできるものとして流通するとおもしろいなという妄想はあって。ダンスできる人しかできないみたいのが嫌で、できるできないじゃなくて踊っていいんだ!って。
ただポストモダンのタスクは、当時のコミュニティの領域内で理解され流通していたアイデアで、排他的なものであったとは思います。太田さんの構想はさらにダンスの裾野を広げていくものだと思いますが、それが実現したとして、踊る経験は果たしてその人にとって何なのでしょうか。みんなが踊ることによって、何が起こり、変わっていくのか。
他者をどうやって理解していくかの回路として、このリサーチではコンタクトのワークショップを行いました。『コンタクト・インプロヴィゼーション──交感する身体』(フィルムアート社)という本の中で、コンタクトの創始者であるスティーブ・パクストンがこんなことを言っています。
ダンサーは自分のテクニックを磨こうと、それぞれ自分のやっているダンスを一日に何時間も練習したりして身体を使う。でも、二四時間踊り続けているわけじゃないから、踊っていない時間も当然あるわけだ。問題は、そのとき、身体がどう動いているかだと思うんだ。たとえば、アップタウンにある稽古場に行くとき。頭の中はリハーサルや作品のことでいっぱいかもしれないけど、スタジオまで行く間、身体はどんなふうに動いているんだろう?
ポケットに手を入れて、お金を出し、混雑した地下鉄にゆられて目的地まで行く。こうした動きを身体はどうやってこなしているのか? つまり、人間には、ダンサーとしての身体活動とは違う身体活動があって、それには果てしないヴァリエーションがあるということだ。
(P64『コンタクト・インプロヴィゼーション』)
コンタクトをやる経験はまさにそこに広がっていくというか。ワークショップの感想で、ダンス経験のない参加者の方から「混雑した電車の中でコンタクト的な体重の預け合いが起こっているのではないか」という感想がありました。コンタクトを経験することによって、日常に起きていることを違う体から見るというか、他者をどういう風に受け止めるかの視点が変わるのはおもしろいと思ったんです。普段から起きる体重の預け合いは基本ただ不快なものなのに。ダンス経験が、タスクによる身体変容の可能性と、コンタクトにおける身体変容の可能性は違うものだと思うけれど、それは何なのか。
それについてはポジティブな話ばかりじゃないかもしれない。
と言いますと?
ミシェル・フーコーが、戦時下の国民体操のような服装や体の動きの統制を通じて権力に対して従順な身体を作っていくことを規律訓練型の権力と言っています。例えばですが、TikTokで流行っているアイドルの「可愛いだけじゃダメですか」も、小学生低学年の女の子たちも真似して歌って踊っていて、ある種の偏った女性観を繰り返し自分の身振りを通じて再現することが果たしていいことかどうかわからない。ある方向に規律、訓練されていかないかというのは、やっぱり思いますよね。コンタクトの話のようなポジティブな変容ではないんだけれども、そういう意味では非常に危ない可能性もある。振り付けが流通するということは、タスク的に誰でもできて民主化されているんだけれども、やっぱりそれは扇動されている、動員されているということでもある。情動的、共感的な伝染の形式は、必ずしもいいことだけではないかもしれない。
他者の体を見る経験としてはあまり経験値が溜まっていっていない。
でも、そのような訓練によって、ダンスはできるようになると思うんですよね。できるようになるし、自分ができないこともわかる。自分の体を動かすことへの解像度は上がっていく。その意味で、やはり「誰しもが踊る」こと、自分の体を理解することの入口にはなるはずです。ただ、他者の体を見る、自分の体を通して他者に接触するというときには、また別の切り口が必要になってくる。
コンタクトという手法と身体の物
白尾さんは東京工業大学(現・東京科学大学)で美学者・伊藤亜紗さんの研究室に在籍していましたが、伊藤さんが著書『手の倫理』の中で触れていた体育の話で「体育はいかに失礼じゃないやり方で人に触れるかを学ぶもの」であるべきなのではないかという話題がありました。とても納得がいって、コンタクトのWSを行ったきっかけのひとつでした。コンタクトで引き合うとか受けて返すということは、まさに相手を尊重して受け入れて、次に展開していかなきゃいけないという意味において、失礼じゃない触り方が必要にもなるのかどうか。規律訓練や身体のデータ化と流通、再生産というのとはまったく違うアプローチができるのではないか。その方向に何らかの希望を見出していけたら、大きな可能性として、例えば自然環境が他人事じゃないみたいな、生の感覚みたいなものの自覚的な運用可能性みたいなことに繋がらないかなと思っていたんですよね。
センシティブな接触において、スポーツはちょっと暴力的なものもルールに則ればオーケーとするものでもあり、暴力的じゃないやり方で触れることを考えるのが体育の機能だとすれば、それは有意義な経験だと思うんです。大人になれば体育の授業はないので、コンタクトがある種の代替的に応用できないかと。
パクストンがどうやってコンタクトという方法を見つけていったかを書いたテキストでは、体を動かす時にイメージがとても強力であるという話が出てきます。例えば、「頭の中に軽いガスが充満していると思ってください」と言われれば、頭が風船のように持ち上がっていって姿勢が良くなる、みたいなことが可能だと。
スポーツでも結構そういうイメトレの練習がありますよね。
パクストンは、そのイメージの作用は認めつつ、それだけに頼らない方向を模索したいということを言っています。つまり、イメージしやすいイメージというのは結構危ないもので、それでわかった気になってしまっては、本当に自分の体の状態には向き合えない。だからパクストンは、立った状態の生徒たちに「いま立っていると想像してください」みたいなことを言う。それで変わる体があるというのはわかる気がするんです。
すでに状態として成立しているけど意識していなかったものを改めて意識する。
パクストンは「自分の体を目撃する」と言っていますが、それはつまり、体の外側から自分の状態を観察するということです。そうすることで得られることは何か。ひとつは自分の体がそんなにコントロールできていないとわかること、もうひとつは、一つの物として体を見ることができるようになるということだと思います。他者と接触する時に「失礼じゃないやり方で触る」のには、物みたいに触ることも含まれるのではないでしょうか。自分の体を物として認識する過程を経ると、「触れてはいけない」という規範を超えたコミュニケーションみたいなものが可能になるのかもしれない。
物は人よりもままならない
白尾さんが書いた、ジャグラー・目黒陽介さんが主宰する“ながめくらしつ”の作品『ライフワーク』のレビューを読んで、物より人の方がよっぽど再現性が高くて信頼できるみたいなことを考えていました。訓練された人が同じパフォーマンスを繰り返したらそうそう間違えないけど、物は壊れたりするかもしれないし、人よりよっぽど信頼できないんじゃないか。その他者のままならなさみたいなことで言うと、訓練された他者って割とままなっていて、予測をそんなに超えた動きをしてこない。物とか、動物とか、機械とか、そういうものの方がよっぽどままならない他者っぽさがある。だから他者のままならなさを学ぶ場って実は鑑賞という経験ではないかもしれないですよね。やっぱり自分で踊ってみる、それも誰かと見てみる。そういうことなのかもしれない。
そうですね。そういう原体験として、高校三年生の時にライゾマティクスリサーチが行った高校生向けのワークショップに参加したことが思い出されます。短い曲に合わせてパフォーマンスを作ることをゴールにしたワークショップで、ライゾマの方の全面的なサポートのもと、モーションキャプチャーや色々な機材を使わせてもらって制作をしました。私はロボットアームを動かす係になったんですが、それがすごくおもしろかったんです。現場にあった工業用のロボットアームは、空間の中の座標とポーズを複数指定すると、一番効率のいい最短の動線を動くんです。そのやり方でロボットを振り付けた経験は、その後、振り付けについて考えるときのひとつの軸になりました。人は「こんな感じで動いて」と指示したらやってくれるけれど、ロボットアームへの指示は、地点aやbを通る軌道をこちらが逆算して、座標として設定するしかない。全然よきに計らってくれないんです。でも振り付ける、人の動きをコントロールするって多分こういうことなんだなと、その時に考えたんです。
停止した点があって、その間をどう繋いでいくかという工程が振り付けになる。
人に振り付ける時、aからbに動く途中の軌道を指示する場合も、そうでない場合もあります。そうでない場合って、例えば何パターンかやってみてもらって、そのダンサーの中で最もしっくりくるものにする。人間に振り付ける時はそういう振り付けとダンサーの相互作用が必ずあるから、ダンス作品でもそのダンサー/演者を振り付けにクレジットするケースって結構多い。機械を振り付けるのは、確かにそういうわけにいかないですよね。機械はやれと指示したことしかやってくれないし、やれって言ったこともやってくれないかもしれないっていう。
そうです。物のままならなさは、人との接触を考えるためにも重要かもしれない。つまり、誰かと接触するときに人として関わろうとすると、どうしてもその人をコントロールできるんじゃないかと思ってしまうし、規律訓練的な方向に向かっていく危険もある。そう考えると、ままならない物として関わることのほうに可能性があるような気がしてきますね。
人間の物象化はネガティブな意味で使われがちですけど、ポジティブな意味合いで捉えてみようという。
確かにおもしろい議論かもしれない。マッサージを受けている時は、物的に動かしてもらった方がいい。美容室のシャンプーの時、首の力を入れずに脱力してくださいって言われますよね。あれって自分が物になって、人に体を委ねるっていう瞬間だなと。
私はすごい怖がりで、後ろ向きに倒れて誰かに支えてもらうみたいなワークとかも怖いんですよ。
よく知らない他者を信頼しきれないってことですね。
それは自分の踊れなさにも繋がっているような気もします。でもマッサージとか美容院はすごく好きで、自分の体を委ねられるんです。解放されるというか。日常的にはある種の振る舞いのコードみたいなものの中にガチガチになっている自分がいる。それがマッサージに行くと、普段は考えられないような体勢で押されたり伸ばされたりして、物として存在できる瞬間に救いを感じるところがあります。
それを受け入れないで反発しようとすると、そのマッサージは途端に効かなくなりますもん。確かに物化した方が楽。いつ何時でもというより信頼関係の中で物化するというか。
信頼関係はやっぱり大切でしょうね。でも、知らないマッサージ師の人でも信頼しますよね。だから、対人というよりは、対場所というか、特定の状況に置かれることで生まれる安心感があるのかもしれません。
物化へのコードや状況が、さまざまにありそうですね。
関係の落としどころを探る身体的経験
むしろ少し知っている人のほうが信頼しづらいというか、信頼できないわけではないけれど、体に触れるとなると緊張して躊躇してしまうということはあると思います。ダンスやコンタクトのワークショップではよく起こりそうな状況ですよね。
昔踊った振り付けで、女性のお尻を叩く振りがあって、女性2人と私の3人チームでどうやるか話し合いをしながらやったんですけど、最初はやっぱり気まずい。2人のうち1人は全然平気な感じだけど、もう1人はちょっと真面目な子でこちらに迷いが出てしまったんです。やってみて迷った方が結果気まずいんですよね。
何も考えてないよと伝わる方が大事ですからね。
他者を物として扱うということにまっすぐ行き着けるわけはなくて、気まずいながらやることになる。その気まずさにも、コミュニケーションの重要な契機が含まれているように思います。
ワークショップの違和感みたいな話ですよね。気づきがあるみたいなことも含めて修正していくものがあることがわかると。
完全に不快なのは良くないでしょうが、多分全員が気持ちいい状態なんてあるわけがないので、気まずくいくらいがちょうどいいのかもしれない。それくらいの状態が、むしろ一番コミュニケーションが生まれやすい気がします。
気まずいけど、譲り合いみたいに、私たちの今の関係だったらここまではギリギリ成立するところがあるよね、みたいな。
体を介するからこそ、それが可能になるのかもしれません。
ダンス的なものであれば、そういうものとして取り組むからこそ、違和感や気まずさのようなものを継続しながらも探り合って調整することができる。言語上でこの探り合いをやろうとするとかなり高度なコミュニケーションにならざるを得ない気がします。
言語レベルじゃないっていうのは大事ですよね。
先ほどの緊張の話は、それを超えていくことをワークショップ側が設定してたんですかね。
その通りですね。たとえば、言語レベルで「ここは安全な場所です」というルールみたいなものが設定されると、途端に信用できなさも感じてしまう。逆に肌の表面を通して、その人の硬さやこわばりを感じること、それがすぐには解けていかないことを感じる時間のうえに、安全な場所は作られていくのだと思います。
そもそもワークショップとか気まずいですもんね。
お互いにある種の決意をする瞬間があって、その場でできる妥協点を見つけることは大切な作業な気がします。ネット上では妥協点を探ることはまるで行われず、ぶつかり合いしかないですから。体と体だとどうしてもそっちには曲がらないとか、避けようとする部位があったりという状況が生まれ、自分とは違う体と心理があることを感覚、知覚することができるんでしょうね。
この記事の著者

good and son
山口博之
FRLエディトリアルディレクター/ブックディレクター/編集者
1981年仙台市生まれ。立教大学文学部卒業後、旅の本屋BOOK246、選書集団BACHを経て、17年にgood and sonを設立。オフィスやショップから、レストラン、病院、個人邸まで様々な場のブックディレクションを手掛けている。出版プロジェクトWORDSWORTHを立ち上げ、折坂悠太(歌)詞集『あなたは私と話した事があるだろうか』を刊行。猫を飼っているが猫アレルギー。
https://www.goodandson.com/

