ヒマラヤ氷河の多面性
北極や南極に次いで多くの氷を抱え、「第三の極」とも呼ばれるヒマラヤ山脈。
数十年の時を隔てて同じ場所を見比べると、かつて雪と氷に覆われていた山肌がその白さを失い、灰色の地面がむき出しになっている。そんな光景をニュースで目にしたことのある人も多いでしょう。
今やヒマラヤの氷が急速に溶けていることは、誰しも知っています。しかし、氷河の融解が周辺地域にどんな影響を与え、そこに暮らす人々がその変化をどう受け止めているのでしょうか。今回は、ヒマラヤの氷河の持つ多面性を、さまざまな視点から見つめ、記録していきます
学術的視点から
トレッキングに訪れる人が最初に手にするのが、ガイドマップ。現地で販売されている1992年版と2024年版の地図を比べると、中国との国境付近の氷河が消失していたり、低地の氷河が後退していたりと、この約30年間での氷河の変化が分かります。
J. M. Maurer、J. M. Schaefer、S. Rupper(2019)の研究によると、2000年から2016年の間にヒマラヤでは毎年約75億トン、厚さにして約43センチ分の氷河が融けていると報告されています。ただし、膨大な量の氷河が融解している一方で、その融解のメカニズムは複雑だといいます。そこで私たちは、温暖化の影響を含めたヒマラヤ氷河の現状を知るために、名古屋大学の藤田耕史さんを訪ねました。藤田さんは、大学時代、山岳部での遠征中に目にした氷河を抱く山々の壮大な姿に魅了され、およそ35年にわたり、ヒマラヤをはじめとした極地をフィールドに研究を続けてきました。
藤田耕史/名古屋大学環境学研究科教授
1969年埼玉県生まれ。京都大学理学部地球物理学科卒業。名古屋大学大学院理学研究科修了。博士(理学)。1992年からチベット高原とネパールヒマラヤでの氷河観測をスタート。その一方、ロシアのアルタイ山脈や中央アジア・キルギスでのアイスコア掘削、南極のドームふじ基地での越冬観測にも従事。ブータンやネパールでヒマラヤの氷河観測を継続。JICA/JST「ブータン・ヒマラヤにおける氷河湖決壊洪水に関する研究プロジェクト」を実質的にリード。

2009年、IPCC(気候変動に関する政府パネル)の報告書に、「ヒマラヤの氷河は2035年までに消滅する可能性がある」という記述が掲載され、世界中に大きな衝撃を与えました。しかしその後、科学誌などから「根拠が不十分であり、執筆者がヒマラヤの環境変化を強調しすぎた結果、不正確な内容となった」との批判が相次ぎ、IPCCは査読体制の見直しを余儀なくされました。この出来事は一例にすぎませんが、メディアではしばしば温暖化を象徴として、南極の氷河が海へと流れ込む映像が使われるなど、氷河は温暖化の記号としての側面があるように思います。実際、科学の現場では氷河についてどのようなコンセンサスが得られているのでしょうか。
現在、氷河変動については、観測記録が残る1970年代と比較して、2000年代以降に氷河の縮小速度がおよそ2倍になっている点で、研究者の間におおむね一致した見解があります。こうした変化には地球温暖化の影響が大きいと考えられていますが、それだけが要因ではありません。たとえば、K2を擁するカラコルム山脈や、タクラマカン砂漠南縁の西崑崙など、一部の地域ではむしろ氷河が拡大していることが確認されています。
温度以外には、どのような要因が関係しているのでしょうか?
氷河の縮小・拡大には、気温だけでなく降水量も深く関わっています。気温の上昇によって標高の低い氷河の末端が融けたとしても、高標高域で降水量(雪)が増えれば、氷河全体としては拡大することもあります。逆に、気温上昇がわずかでも降水量が減れば、氷河が縮小することも起こり得ます。ただし、カラコルムや西崑崙などで氷河が増えている理由については、まだ解明されていない部分も多く、まさに私たちが研究を進めているテーマでもあります。
また近年では、「暗色化」と呼ばれる現象も報告されています。氷河の表面に「クリオコナイト」と呼ばれる泥状の物質が堆積し、もともと反射率の高い白い氷が黒ずむことで、太陽光の吸収が増し、融解が加速することが確認されています。ただし、この物質がどのように生成され、どのような条件で堆積するのかといったメカニズムについては、依然として不明な点が多いのが現状です。
温暖化によって溶けている、というふうに単純に言い切れるものではないのですね。
ヒマラヤの氷河観測が本格的に始まったのは1970年代で、現時点でもおよそ50年分のデータしか蓄積されていません。さらに降水量に関しても正確な観測が少なく、極地の厳しい環境のため観測地点も限られています。如何せん、結論を出すためには手元にあるデータのサンプル数が十分とは言えません。そのため、氷河変動の研究において、今後、数十年から数百年というスパンでの継続的な観測が欠かせません。
氷河の変動とともに、藤田さんが研究を続けているもう一つのテーマ「氷河湖」についても教えてください。私たちが現地を訪れる直前には、ネパールのエベレスト街道沿いのターメ村が、氷河湖の決壊による洪水で大きな被害を受けました。こうした氷河湖決壊の事例は、今、増えているのでしょうか?
氷河湖については、1990年から2015年の25年間で、世界的に見ると湖の面積は約2割拡大し、貯水量はおよそ2倍に増加しています。一方で、決壊の発生件数に関しては、統計的に見る限り、近年特に増加しているとは言えません。この点も、氷河の変動と同様に、長い時間のスパンで観察していく必要があります。
私たちは「温暖化による気温上昇で氷河が融け、融解水が増えて氷河湖が決壊する」という単純なイメージを抱きがちですが、実際の氷河変動のメカニズムはそれほど単純ではないことが分かりました。氷河や氷河湖に関しては、いまだ未知の部分が多く残されており、それらは今後、数十年から数百年という長い時間をかけて明らかにされていくでしょう。
現場の視点から
前述のとおり、氷河の融解によって生まれる水は、温暖化の象徴や氷河湖決壊の原因として語られることが多い一方で、灌漑や水力発電など、下流域に暮らす人々の生活を支える大切な資源でもあります。この章では、サガルマータ国立公園に暮らし、氷河の融解を間近で見てきた人々へのインタビューを紹介します。
パーマ・シェルパさんとダワ・テンジン・シェルパ(ロッジオーナー)
エベレスト街道最後の村として知られるゴラクシェプ。エベレスト登山を契機に生まれたこの小さな村には、わずか数軒のロッジが立ち並ぶのみです。この地で25年間にわたりロッジ『Buddha Lodge』を営んできたパーマ・シェルパさんと、息子のダワ・テンジン・シェルパさんです。
5年間のこの辺りの氷河はどのように変わってきていますか?
氷河の量は随分減ったと思います。昔はこのあたり(『Buddha Lodge』)まで氷河がありましたが、今はベースキャンプ付近にいくまで氷河はありません。
氷河湖についてどうでしょうか?
この十数年のあいだに、氷河の氷が溶けて新たな氷河湖が生まれる様子を何度も目にしてきました。もしその湖が決壊すれば、濁流が村や町をのみ込み、壊滅的な被害をもたらすでしょう。実際、数か月前にはターメ村が氷河湖決壊による洪水で深刻な被害を受けました。そして今、イムジャにある氷河湖も、近いうちに決壊するのではと言われています。いつかこの村も流される日が来るかもしれません。
もし流されてしまったら、その後どうするのですか?
その時はまた別の場所でロッジをするでしょうね。最近、ディンボチェ(4,400m)に新しいロッジを建てているんです。そこはまだ安全ですから。
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ベースキャンプに辿り着くまでに、何度も吊り橋をわたる。 -
吊り橋の入り口付近には、洪水に備えて予備の機材が置かれていた。
その後、いくつかのロッジオーナーにも話を聞いたが、彼らの口からは「流されるだろう。でも、そのときは別の場所でまた始めればいい」という言葉が繰り返されました。
#04で紹介した文化と同様に、この地域に暮らすシェルパ族の多くは、土地への執着をあまり持っていないように見えます。それが、エベレスト登山をきっかけに形成された歴史の浅い村であることに由来するのか、あるいは、約500年前にチベットから移り住んだ民族というシェルパの文化的背景によるものなのか、この調査だけでは断定できませんが、彼らが氷河の融解をあたりまえの出来事として受け入れていることは印象的でした。
アシス・グルン(国際山岳ガイド)
岩を主なルートとする欧州のクライマーとは異なり、氷河を登攀の主ルートとするヒマラヤのクライマーたちにとって、氷河融解によって登頂可能な山の姿が変化しているとアシスは言います。
「自然が私たちに挑戦している。常に自分自身をアップデートし続けなければなりません。最近は、この地域の多くのクライマーたちがロッククライミングの技術を習得しようと思います。」
その言葉には、自然との「共生」や「保護」といった感覚とは異なる、「乗り越える対象」として自然という独自の自然観が垣間見えます。一方で、この場所に住み続けることの難しさも口にします。
「私はできることなら、生まれた国で働きたい。だけど、15年間この場所の変化を見てきて、これからの15年間、この場所で同じように仕事を続けるのは難しいとも思っています。すでに多くの仲間がアメリカやカナダに移住しています。それはとても心苦しいけれど、家族のことを考えるとその時は近いのかもしれません。」
虫の目と、鳥の目
ある対象の全体を見ようとすれば、いったん距離を取る必要があります。一方で、その細部を理解しようとするなら、対象に近づかなければなりません。たとえば、現地では「30年後には氷河がなくなる」「氷河湖の決壊が増えている」といったことが語られています。しかし、学術的に見ると、それらは必ずしも正確な情報ではないとされています。大切なのは、どちらか一方に偏らず、全体と部分の両方の視点、鳥の目と虫の目を持つことなのでしょう。それこそが、私たちが実際にフィールドリサーチを行う理由でもあります。
サガルマータ国立公園で起こっている、オーバーツーリズムや文化変容、氷河融解という問題。それらは、ローカルな問題であると同時に、プラネタリーな問題でもあります。出発前に、美術家・保良雄が述べた「コップに氷を入れると、氷は溶けて飲み物は冷たくなる。僕たちの行動も、どこかで何かに影響を与えているのではないか。もしかすると、それがヒマラヤの氷河を溶かしているのかもしれない。」という言葉。それはひとつの比喩表現にすぎないかもしれませんが、本連載がそのような見えない関係性を想像するきっかけになることを願っています。
この記事の著者

kontakt
柴田准希
1997年富山県生まれ。大学ではスポーツバイオメカニクスを専攻。卒業後、広義のファッションに関わる仕事をしたいと考え、2023年にkontaktに入社。
ガイド

国際山岳ガイド
Ashish Gurung
1991年、ネパールのマカルー地方、リンガム村に生まれる。2010年に登山遠征隊のキッチンボーイ(調理補助)としてキャリアをスタートさせ、2016年より本格的にガイドトレーニングを開始。約6年間にわたる研鑽を経て、2022年に国際山岳ガイド連盟(IFMGA)認定ガイド資格を取得。現在は、英語と日本語を駆使し世界各国から訪れる登山者のガイドを務める。2025年には自身のガイド会社「Summit Solution Treks & Expedition」を設立し、さらなる挑戦と活動の幅を広げている。これまでに、エベレスト4回、ローツェ2回、アマ・ダブラム5回の登頂を果たし、さらに数々の6,000m級の峰々にも登頂するなど、豊富な登頂実績を誇る。
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Goldwin Inc.
上沢勇人
2019年入社。THE NORTH FACE STANDARDのショップスタッフを経て、2023年よりマーケティング部所属。趣味はロングトレイルやバックパッキング。ここ2年ほどはトレイルランにハマり100mileの完走を目指してトレーニング中。

