自然がひらかれるとき 02

大きな石と、女神の住む山

2025.06.10 Tue

ネパール・クンブ地方の変遷

ネパールが134年間わたる鎖国政策を終えたのは、わずか76年前の1949年のこと。1816年から続いた長い孤立の時代が終わりを迎えたその4年後、ニュージーランド出身の登山家エドモンド・ヒラリー氏と、シェルパ族のテンジン・ノルゲイ氏によって、世界初のエベレスト登頂が達成されました。本章では、まず年表を通してネパールとエベレスト登山の歴史を簡単に振り返ります。

1953年に登頂成功のニュースが報じられると、エベレストは世界的に注目されるようになります。ネパールへの観光客数はおおむね年を追うごとに増加し(図1)、クンブ地方への来訪者数も増加傾向にあります(図2)。1980年代には年間で約20人程度にすぎなかったエベレストの登頂者数は、現在では年間100人を超えるまでに増加しています。

2024年、ネパールの観光産業収益は過去最高となる約765億ルピー(約1333億円)を記録し、国内総生産(GDP)の約6.6%を占める主要産業へと成長しました。さらに図1・2に示されているように、2023年にはネパールを訪れた外国人観光客1,014,882人のうち、約4.4%にあたる44,413人がサガルマータ国立公園を訪れており、クンブ地方がネパール観光において重要な役割を担っていることがわかります。

内側の視点から

ここまで、ネパールの開国から現在に至るまでの変遷を簡単に振り返ってきました。この76年の間にクンブ地方を取り巻く環境が大きく変わってきたことがわかります。その一方で、こうした変化は、この地に暮らしてきた人々の目にはどのように映っていたのでしょうか。私たちはそれを探るために、エベレスト登山が始まった当時を知る第1世代、その子ども世代にあたる第2世代、そして孫世代にあたる第3世代の3世代にわたってインタビューを行いました。

第1世代

私たちはまず、1953年にエドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏とともにエベレスト初登頂を成し遂げたチームの中で、現在唯一存命であるカンチャ・シェルパ氏を訪ねました。彼は、1939年にエベレスト街道沿いの村・ナムチェバザールで生まれ、ポーターとして働いたのちに、現在は同地にてロッジを運営しています。

カンチャ・シェルパ氏

こんにちは。まずは、1954年までのエベレスト登頂に至るまでの経緯について教えていただけますか?

カンチャ

この場所(ナムチェバザール)で生まれ、ジャガイモを栽培して暮らしていました。ある日、彼ら(エドモンド・ヒラリー氏とテンジン・ノルゲイ氏)がやってきて、登頂のためのルート作りを手伝ってほしいと言われたのがポーターになったきっかけです。それまでは、エベレストという山があるということも知りませんでした。

エベレストを知ったとき、どう思いましたか?

カンチャ

世界で最も高い山が身近にあること、そして外国人がその山に挑戦しようとしていることが嬉しかったです。

登頂する前、あなたにとってエベレストはどのような存在でしたか?

カンチャ

大きな石だと思っていました。父からよく「少し歩いたところに大きな石がある」と聞かされていたので。

今はどのような存在でしょうか?

カンチャ

私たちに富をもたらしてくれる存在です。もともと、この村にはジャガイモ以外ほとんど何もありませんでした。しかし、エベレストのおかげで村は発展し、私も子どもたちに質の高い教育を受けさせることができました。今では孫たちが海外の大学で学んでいます。エベレストが身近にあったことは、本当に幸運なことでした。

発展する一方で、多くのシェルパ族の方々がこの地を離れ、文化が次第に失われつつあると聞きます。それについてどう思いますか?

カンチャ

シェルパ族の人々が世界中へ広がってゆくこと、それに代わり異なる民族がこの地域に暮らすことは良いことだと思います。もちろん困難もありますが、変化していくことが大切です。私自身も、エベレスト登頂の日を境にすべてが変わりましたが、あの日以降の変化には大いに満足しています。

エベレスト初登頂を成し遂げたイギリスの遠征隊。
環境問題への貢献が認められ「UFS Inspirer」を授与。
カウンターには、海外の出版社が刊行した自伝が並ぶ。

インタビューが終わると、多くの人が彼にサインを求めました。壁には彼の功績を讃える数々の賞状が飾られ、2021年には自伝も出版され、エベレスト登山がこの地域にもたらした影響の大きさが感じられます。カンチャ氏が「変化していくことが大切。」とこれまでの変化を全面的に肯定する一方で、異なる世代にとってこれらの変化がどのように映っているのでしょうか。

第2世代

次に私たちは、エベレスト街道で創業50年のロッジを営むチミ・テンジン・シェルパ氏にお話を伺いました。彼は1970年にエベレスト街道の村・パクディンで生まれ、36年前に父親からこのロッジを引き継ぎました。両親はすでに海外に移住しており、彼自身も流暢な英語を話します。

チミ・テンジン・シェルパ氏

まずは、あなたが子どもだった頃の村の様子を聞かせてください。

チミ

ゴミひとつない綺麗な村でした。ロッジも数件しかなく、観光客も数えるほどしかいません。父親は育てたジャガイモをチベットで塩と交換し、その塩をドゥーンバレー(インド)で米と交換していました。まだ、物々交換の時代です。1980年後半、観光客が増えてきた頃からこの村は徐々に変わっていったように思います。

観光客についてどのように考えていますか?

チミ

良い面もあれば、悪い面もあります。たとえば、ダルバートを見ればわかるように、観光客が訪れる以前、この地域で食べられていたのはジャガイモや米など、すべて自然に分解されるオーガニックな食材でした。そうしたゴミは地面に捨てても自然に分解され、土に戻っていきました。しかし1980年代頃から、観光客の要望に応えるかたちで、ツナ缶やジュース、スナックなどを提供するようになります。私たちは従来のように穴を掘って捨てていましたが、それらは自然に分解されず、次第に道にあふれるようになっていきました。

つまり、缶やペットボトルが自然に分解すると思っていたのですね。

チミ

その通りです。当時の私たちは、ゴミに関する知識をまったく持っていませんでした。その一方で、先ほど観光客の存在がゴミ問題に繋がったとお話ししましたが、そのゴミであふれた状況を改善してくれたのもまた観光客でした。実際、ゴミ問題に最初に取り組んだのは彼らだと思います。彼らはペットボトルのリサイクル方法や、ゴミを分別することの重要性など、ゴミに関するさまざまなことを私たちに教えてくれました。

他に、観光客によってもたらされたものありますか?

チミ

今や、この場所で暮らし続けるためには、観光客の存在は不可欠となっています。昔は家を建てようとしても、釘一本さえ手に入れることができませんでした。現在のように電気が通り、水が出るのはすべて観光客のおかげです。

多くのシェルパ族がこの地を離れ、文化が次第に失われつつある現状についてどう考えていますか?

チミ

よりよい生活や教育を求めてこの場所を離れる人々の気持ちは理解できます。その一方で、現在は海外で学んだ若者たちが少しづつここに戻ってきています。今は彼らと共に、観光客と調和しながらここで生きていく方法を考えていきたいと思っています。シェルパ族の文化をただの懐かしい思い出にしたくはないのです。

最後に、あなたにとってエベレストはどのような存在でしょうか?

チミ

私たちはあの山を「チョモランマ」と呼びます。チョモランマとはチベット語で大地の女神という意味です。あそこにはミヨランサンマという女神が住んでいて、私たちをいつも守ってくれています。

観光客は、彼らにとってゴミを持ち込んだ存在であると同時に、ゴミ問題の解決に貢献した存在でもありました。また、コミュニティを解体する要素でありながら、その存続に欠かせない要素でもあります。たしかに、ゴミ問題やコミュニティ解体は実際に起こっていました。しかし、それらは観光がもたらしたひとつの側面にすぎません。さらに、カンチャ氏とチミ氏の間にはエベレストの捉え方に変化が見られます。今回のリサーチではその理由まで断定することはできませんが、30年の間でクンブ地方の環境が急速に変化したことがうかがえます。

第3世代

第3世代として、サガルマータ国立公園の環境保護とゴミ管理を行うNGO、SPCC(サガルマータ公害管理委員会)で働くヤンジー・ドマ・シェルパ氏にお話を伺いました。彼女はクンブ地方の小さな村・ターメで生まれ育ち、カナダの大学に進学し自然資源管理学の修士号を取得した後にクンブ地方に戻ってきました。

ヤンジー・ドマ・シェルパ氏

現在の仕事内容について教えてください。

ヤンジー

大学を卒業し、2012年にクンブ地方に戻ってきました。2013年からSPCCの広報として、年間報告書の作成や観光客とのコミュニケーションに携わっています。

卒業後そのまま海外で働くという選択肢もあったと思います。なぜ戻ってきたのでしょうか?

ヤンジー

ここが私の故郷だからです。クンブ地方はオーバーツーリズムや自然災害への対応など、さまざまな課題を抱えています。それに対して、この地域出身としてずっと責任を感じていました。また、エベレストは世界中から人々が訪れる場所であり、温暖化の影響を強く受けている場所です。SPCCは小さな組織ですが、私たちのアクションは多くの人々にインパクトを与えると思っています。

多くのシェルパ族がこの地を離れている現状についてはどう考えていますか?

ヤンジー

おっしゃる通り、多くの若者がこの地域を離れて生活しています。しかし、彼らの多くは完全に定住しているわけではなく、主に都市部で暮らしています。この地域を離れた若者たちの親の多くは、登山やトレッキング関連の仕事に従事しており、登山以外の職業があることをあまり知りません。例えば、SPCCには銀行や保険の部門もあり、そうした分野を知ったシェルパの若者たちが戻ってくるケースもあります。私がSPCCに入社した当時はシェルパ族は2人しかいませんでしたが、現在は20人以上が働いています。私たちの活動は、環境保護に加えて、若者が故郷に戻るきっかけとしてよいモデルになれると思います。

シェルパ族の文化を残すためには何が課題だと思いますか?

ヤンジー

現在、エベレスト街道の入り口であるルクラ村と低地を結ぶ道路の建設が進められており、これまでは飛行機でしかアクセスできなかった場所に、車でも行けるようになります。この道路によって、これまで以上に多くの人々が訪れるようになるでしょう。観光客の増加はゴミの増加や生態系への影響をもたらす一方で、経済面では多くの雇用を生み、故郷を離れたシェルパ族が戻るきっかけにもなります。私たちが持続可能な観光モデルを構築できるかが鍵になると考えています。

カンチャ氏が現状を切り開いた世代であるなら、チミ氏は急激な変化に直面した世代であり、ヤンジー氏は現在の状況が当たり前となった世代と言えるでしょう。3者の言葉からは文化やコミュニティ、さらにはエベレストに対する異なる考え方がうかがえますが、観光客に対しては一方的に批判するのではなく、共存する道を模索するという共通の姿勢が見受けられます。次章では「ゴミ」に焦点を当て、彼らが観光客とともにどのようにゴミ問題に取り組んできたのかを詳しく見ていきます。

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この記事の著者

kontakt

柴田准希

1997年富山県生まれ。大学ではスポーツバイオメカニクスを専攻。卒業後、広義のファッションに関わる仕事をしたいと考え、2023年にkontaktに入社。

ガイド

国際山岳ガイド

Ashish Gurung

1991年、ネパールのマカルー地方、リンガム村に生まれる。2010年に登山遠征隊のキッチンボーイ(調理補助)としてキャリアをスタートさせ、2016年より本格的にガイドトレーニングを開始。約6年間にわたる研鑽を経て、2022年に国際山岳ガイド連盟(IFMGA)認定ガイド資格を取得。現在は、英語と日本語を駆使し世界各国から訪れる登山者のガイドを務める。2025年には自身のガイド会社「Summit Solution Treks & Expedition」を設立し、さらなる挑戦と活動の幅を広げている。これまでに、エベレスト4回、ローツェ2回、アマ・ダブラム5回の登頂を果たし、さらに数々の6,000m級の峰々にも登頂するなど、豊富な登頂実績を誇る。

写真

Goldwin Inc.

上沢勇人

2019年入社。THE NORTH FACE STANDARDのショップスタッフを経て、2023年よりマーケティング部所属。趣味はロングトレイルやバックパッキング。ここ2年ほどはトレイルランにハマり100mileの完走を目指してトレーニング中。

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