あの人は子どもの頃、どんな遊びをし、どんなことを信じていたのだろうか。
子どもは遊びを通して世界と関わり、遊びを通して自分をかたちづくっていきます。あの人はどんな遊びをしてきたのか。そしてそれはいまのその人にどんな影響を与えているのでしょうか。
「遊び」と「自然」と「子ども」をテーマとしたゴールドウインのプロジェクト「PLAY EARTH KIDS」のサイト上でかつて連載していた子ども時代の遊びの記憶を探る「子どもの頃、どんなことしていました?」。舞台を変えてFRL.内で再開します。
森山直太朗が取り戻すことになったひとり遊びの世界
足掛け2年弱に渡り日本全国を巡ってきた100本以上のツアーを収めたライブ&ドキュメンタリー映像作品「20thアニバーサリーツアー『素晴らしい世界』 in 両国国技館」がリリースされる音楽家の森山直太朗。ともにシンガーである森山良子とジェームズ滝を両親に持ちながら、両親が家にいないためにおばあちゃん子として育った直太朗少年は、どんな子ども時代を過ごし、どんな遊びをしていたのか。ツアー中に父を亡くし、改めて振り返ることも多かった過去と、いま取り戻そうとしている子ども時代のひとり遊びの世界について。
森山直太朗
1976年4月23日東京都生まれ、フォークシンガー。
2002年10月ミニ・アルバム『乾いた唄は魚の餌にちょうどいい』でメジャーデビュー以来、独自の世界観を持つ楽曲と唯一無二の歌声が幅広い世代から支持を受け、定期的なリリースとライブ活動を展開し続けている。2022年6月から“全国一〇〇本ツアー”と銘打ち実施した20thアニバーサリーツアー『素晴らしい世界』の国内最終公演となった両国国技館のライブの模様と約2年に渡った107本のツアーのドキュメンタリーを収めた映像作品、「20thアニバーサリーツアー『素晴らしい世界』in 両国国技館」をリリースする。
家族の風景、 麻雀する親と甘えたい子ども
甘えてこっちを向いてほしかったけど、それができなかった
小さい頃の遊んでいた記憶はどんなものがありますか?
最古の記憶は大山公園という公園でおばあちゃんと一緒にトラックのおもちゃで遊んでいる記憶ですね。
何歳頃ですか?
3歳になるかならないか。母も父もミュージシャンで外で働いていたので根っからのおばあちゃん子。だから僕はすごくおばあちゃんに優しいんですよ。ご高齢のファンも多いんですけど、とりわけおばあちゃんにはすごく評判がいい(笑)
さすが「国民のいとこ」。お父さん、お母さんやお姉ちゃん、家族と一緒に遊んだ記憶はあまりないですか?
みんなでというのはないかな。当時母が家にいる時はほとんど仕事の人も誰かしらが一緒にいました。当時の社長だった人やミュージシャンの人たちが来て、うちが部室的に使われていたり、打ち上げ会場みたいになってることも多かったんです。父も母もよく家で麻雀していました。子どもとしては麻雀する暇があったら遊んでほしいし、甘えてこっちを向いてほしかったけど、それができなかった。「早く寝なさい」と言われて部屋で布団にくるまりながら、麻雀のかき混ぜる音とプカプカ吹かすタバコの煙を感じながら眠っていたのを思い出します。
入眠があまり上手でなくて、ふと麻雀番組を観ながら眠る夜がある。子供の頃両親が友人達と集まってよく麻雀をしていて、幼な心に牌を混ぜる音や大人達が点棒を投げ合ったりしてるのがあまり好きじゃなかった。時を経て牌が混ざる音を聴きながら寝てる。これもある種の自傷行為のようなものなのか。
— 森山直太朗 (@naotaroofficial) July 22, 2024
母のスカートの中によく潜り込んでいました
寂しさのある風景ですね。
そうかもしれませんね。そんな感じで母との接点はいつも誰かが一緒にいて、親と子という一対一は皆無だったと思います。
子育てとして遊んでもらったことはあまりないと。
甘えることはありましたよ。母と会ったら母のスカートの中によく潜り込んでいました。あと、父が野球好きだったこともあって、小学校2年生から少年野球チームに入りました。父はコーチ、僕は選手という関係で2人でよくキャッチボールしていました。
ご両親は9歳の頃に離婚別居されたそうですが、お父さんは一緒に遊んでくれていたんですね。
むしろ父親はよく遊んでくれていたと思います。姉とは異父姉弟なので父親にとって自分が唯一の実子だったから思い入れがあったんじゃないかな。昭和堅質な人で息子とキャッチボールするのが夢だったとずっと言っていましたね。ただキャッチボールをやらされすぎて飽きてしまい、途中から並行してサッカーも始めることになるんですが(笑)
飽きるほどのキャッチボール・コミュニケーション(笑)
でも小6まで野球チームも継続してやってキャプテンにもなり、大会も優勝したんですよ。
自分だけの世界で独り言を喋る通学時間
一人で乗っていた電車の先頭車から最後の車両まで歩きながらずっとぶつぶつ喋ったりしていたんです。
家に来ていた親の友だちや仲間たちに遊んでもらうことはあったんですか?
ある時期までは普通にかわいがってもらっていましたけど、小学校高学年くらいになるとやっぱり照れもありましたね。あと、「歌え」と言われて歌わされることもよくありました。嫌な時もあったけど、楽しくもあって、人前で何かやることの小さな成功体験が今につながるってるんじゃないかな。
やっぱりそこには歌があるんですね。
四六時中ではないですけどね。大人たちと一緒にいたからか割と社交的で愛想もいい方だったし、少年野球とサッカー部でもキャプテンをやっていましたけど、一方で圧倒的に親との接点が少なかったからか、閉じて自分の世界をつくる感覚が今でもずっと自分のベースにあります。5歳上の姉とも一緒に遊んでいなかったので、多分僕みたいな境遇で育った子はひとり遊びが得意になるんじゃないかな。1人で大きめのぬいぐるみを相手に格闘するとか、あるいはウルトラマンの人形を使って自分なりの物語をつくって、効果音をつけながら戦うとかをずっとやっていました。
自分の世界をつくるという意味ではいまにつながる原点があるのかもしれないですね。
通っていた幼稚園と小学校への通学が、電車で片道30分くらいかかっていたんですね。小学校低学年まではおばあちゃんが送り迎えをしてくれて、だんだん一人で通学するようになりますよね。そうすると大人たちに囲まれた車内が、どこか異様な空間であることを感じて景色が全然違って見えたんですよ。今でもですが、僕ちょっと多動気味なところあって。当時は今よりはっきりそうで、一人で乗っていた電車の先頭車から最後の車両まで歩きながらずっとぶつぶつ喋ったりしていたんです。
独り言をずっと言っていたと。
曲みたいなものを歌ったり、頭の中のだれかと会話したり、落語みたいなことを喋っていたり、いろいろ。
なかなか賑やか。
多動だったり自分の世界に閉じこもりがちだったなと今になって思います。今はもうほとんどなくなったけど、ある意味で意識的にコントロールしているところもある。
先ほどの麻雀の話しもそうですが、そういうのってどこか自分が抱えている傷のような気がしていて。親を批判したいわけではなく、ある種偏った家庭環境や満たされなさが自分の人格形成に大きな影響を及ぼしていて、今の創作活動や自分だけの世界をつくり上げる舞台表現は、この環境じゃなかったらできるようになっていなかったんじゃないかな。そういう意味では感謝してることでもあるんです。全然違うアナザーライフを想像したりするけど、今が僕にとって素晴らしい、有意義な人生だと考えるなら、人生はうまくできている。
ある種の歪みと捉えられるものも上手に機能してる部分があると?
そう。歪みでしかないものが自分の創作を生んでいるんだと思います。やっぱり母なんですよ、僕が影響を受けているのは。父の感性にはたくさん影響を受けているけど、こと人格形成に関してはやっぱり母。
床が抜けそうなほどのフィジカルひとり遊び
5歳上のお姉ちゃんと一緒に遊ぶことはなかったようですが?
遊んだ記憶があまりないんですよね。姉貴なりにかわいがってくれていたとは思うけど、喧嘩していた記憶しかない(笑)どこかで母親の取り合いみたいなところもあったし、5歳上だから腕っぷしも強くて全然勝てませんでしたね。
1番やっていたひとり遊びは?
ヒーローもの。先ほども触れましたけど、ギターケースくらいあるパンダのぬいぐるみがあって、それを相手によく戦っていました。戦隊モノや仮面ライダーとかのイメージで、2階の床が抜けそうなくらいの勢いで飛んだり跳ねたりしていました。
フィジカルで遊ぶほうが安心ができるというか、じっとしていられないんです。子どもの頃から動いていないと悶々としてしまう。
野球やサッカーが好きだったように、体を動かす遊びが好きだったんですね。
そうですね。さっきの独り言の時とは別で、遊ぶ時は頭の中で空想するというよりもフィジカルな遊び方が好きだったと思います。ファミコンとかも一通りやったけどハマるという感じでもなかったかな。体をつかった遊び方に実演家としての表現の根があるのかも。フィジカルで遊ぶほうが安心ができるというか、じっとしていられないんです。子どもの頃から動いていないと悶々としてしまう。
ご両親はそんな落ち着かない直太朗少年をどう見ていたんでしょう。
今思うと、母や父といる時は、一緒にいられる時間が限られていたから落ち着きをなくしていたらもったいないと思っていた気がします。実際「本当に手がかからなかった」と母は言っていましたから。
両親は自分がいない時に、直太朗さんがどんなことして遊んでいたかはわかっていなかったわけですね。
知らなかっただろうし、興味もなかったと思いますよ(笑)。ただ小学校3、4年生の頃、23時とか遅い時間に母が帰ってきても、寝る間を惜しんで今日学校であったこととかを話していましたねー。母を独り占めできる貴重な時間だった。
指に豆ができるほどの布いじり
子どもの頃、信じていたこととかマイルールのようなものはありました?
そういうのはなかったんじゃないかな。ちょっと違いますけど、人の出方を伺っていたことかな。相手が何をしたら気分いいのかみたいなことをずっと考えていました。
疲れちゃいそうですね。
あ、癖ありました! 今でも続いているけど、不安な時とか考え事をする時に服とかの布をつい触っちゃう。 小さい頃はそれに加えて指をしゃぶっていたらしいです。
たしかに時々触っていますね!
豆ができるくらい触り続けてきました。
ほんとだ、触ってきた歴史が指に。
さっき母親のスカートの中に入る話しをしましたけど、中に入って母親のスカートとかの生地を触っていたんです。しかも指をしゃぶりながら。
どれだけ甘えたいんだと。
切ない(笑)。母親のいいイメージがまったくないですね(笑)。感謝してるんですよ!
ボランチとして生きてきた人生のこれから
サッカーでの自分の役割、ポジションはどうですか?
ずっと中盤の守備的なポジション、いわゆるボランチでした。危機を察知したり、攻撃の起点になったり、たくさん動いて有効なパスを出す役割ですね。
サッカーでも周りに気を遣っていたわけですね。
たしかにそうですね。ボランチはみんなが攻撃してる時は守備のことを考え、みんなが守備に入っている時はどこに攻撃の目があるかを探るという、いつも流れと逆のことを考えるポジションでもあります。それは家庭や今の仕事ともリンクしていると思います。家族の中でも姉と母親は完全にツートップで、父親はなんか肩身狭い守備みたいな感じ、そんな中で自分はそれぞれの機嫌を損ねないように、プライドを傷つけないようにしていた気がします。
主役としてトップで主張するのがアーティストだけれど、仕事でもバランスを考えてしまう?
僕は割と保守的に生きてきて、自分のポジションを投げ打ってまで攻めていけないタイプ。アーティストとしても自分で勝手に全体のバランスを取ったり、誰かの都合を満たすために自分が動いてしまう。でもそうするとやっぱり自分のつくるものもどこか迎合したものになってしまい、思い切ったものにならなかったんです。舞台とか創作物は絶対に嘘をつかないから。
こういう職業をやっていると、時として自分がフォワードにならなきゃいけない時がある。自分の舞台で、自分の歌だから、自分でお膳立てして自分でゴールを決める時が。僕がいなくても世界は回るし、僕が自由に生きたとしても社会が破綻することはないわけで、自分が自分のポジションを捨ててまで自分がやりたいことを優先することもきっと大事なんだろうなと思っています。だから自分と同じポジションができる優秀な仲間がいれば、自分は自由に前に行くことができる。いまのマネージャーはまさにそういう存在。
最前線であるひとり遊びとそれを支えてくれる仲間
独り言を言っていた子どもが大人になって、人の目も気にせず没頭して実現したい舞台や社会について、不確かな動機だけど明確なビジョンができてきた
子どもの頃から担ってきた家族やチームの輪を壊さないように調和する係だった人の枷が、ここ数年でやっと外れようとしてると。
40年越し(笑)高校時代からの友人であり、自分と共作し、プロデューサーでもあった強力なブレーンの御徒町凧がいたことで、自分は1アスリートとして全力を出すことが役割で、そこには自信はありました。アスリートとして彼のアイディアに答える日々だったけど、さっきも話したように最近は自分がフォワードになって、わがままにやってもいいんじゃないかって。ぶつぶつ一人の世界で独り言を言っていた子どもが大人になって、人の目も気にせず没頭して実現したい舞台や社会について、不確かな動機だけど明確なビジョンができてきたんです。
家でも外でもバランスを取るボランチとしてずっとやってきたアーティスト人生だったけれど、もう1回昔の自分に戻ってひとり遊びが担っていた領域を広げているような感じですね。
そうそう。だからある意味では変わっていないんだと思う。ただひとり遊びに付き合ってくれる人が増えました。でもひとり遊びをみんなでやることができるのは、もしかしたらチームスポーツ、チームプレイをやってきたことが大きいのかもしれません。クリエイションそのものだけじゃなく、誰と一緒にやるか、誰をどこのポジション、役割で起用するかというフォーメーションや戦術を話しをしている時がすごい楽しいですからね。
この記事の著者
good and son
山口博之
FRLエディトリアルディレクター/ブックディレクター/編集者
1981年仙台市生まれ。立教大学文学部卒業後、旅の本屋BOOK246、選書集団BACHを経て、17年にgood and sonを設立。オフィスやショップから、レストラン、病院、個人邸まで様々な場のブックディレクションを手掛けている。出版プロジェクトWORDSWORTHを立ち上げ、折坂悠太(歌)詞集『あなたは私と話した事があるだろうか』を刊行。猫を飼っているが猫アレルギー。
https://www.goodandson.com/