わたしたち、以外の“わたしたち”へ 03

加速する現代社会とアニミズム

2025.06.20 Fri

アニミズムとは何か

「人間が地球にとって必要な生命になるために、私たちは文化をどう変えるべきか?」──この問いから始まった本連載は、人間と自然、人間と非人間のあいだにある関係性を見つめ直すリサーチです。自然を「資源」や「対象物」として消費するのではなく、どうすれば自然の一部として、私たちは共に生き直せるのか。その手がかりとして注目したのが「アニミズム」です。

今回インタビューした立教大学教授で人類学者の奥野克巳さんは数多くの著書で、現代社会におけるアニミズム的感覚の重要性について書かれています。

人間は、地球上の多くの場所で、動植物やモノを含む自然を人間の領域から切り離して対象化し、人間の利益と快適さのために自然を利用・改変しながら現代世界を作り上げた。よく言われるように、人の手によって地球環境の生態環境は台無しにされたのである。その結果、地球上のあらゆる生物が「傷ついた地球」に住まわざるを得なくなり、人間が自然から手痛いしっぺ返しを受けていることに、最近になってようやく気づくようになった。

人間が、クマが人間のように振る舞う世界へとすんなりと入っていけるような感受性を私たちのうちに養い続けておくことが大切なのである。この点に、アニミズムの今日的意義があるように思われる。(※1)

アニミズムとはいかなる思想なのか。そして都市生活者の私たちはどのようにアニミズム的感覚を養うことができるのか。奥野さんの研究室でお話しを伺いました。

奥野克巳

人類学者。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。大学在学中から世界中を旅し、卒業後商社勤務を経て、大学院で人類学を専攻。2006年からボルネオ島(マレーシア・サラワク州)に暮らすプナンのもとで定期的にフィールドワークを続けている。著作に『ひっくり返す人類学』『はじめての人類学』『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』など。

アニミズムとはいかなる思想か

酒井

この連載を始めるにあたり、真っ先に奥野さんにお話を伺いたいと考えていました。私と共同リサーチャーの上沢は、奥野さんと清水高志さんとの共著『今日のアニミズム』に大きな影響を受けたんです。同書では、仏教哲学や文学作品を手がかりに、現代社会においてアニミズムを考えることの重要性について考えられています。

まず基本的な質問ですが、奥野さんが専門とされる文化人類学では、「アニミズム」をどのように理解されているのでしょうか。

奥野

アニミズム研究の歴史からお話ししましょう。アニミズムは19世紀に人類学者のエドワード・タイラーが定義した考えです。当時のヨーロッパでは、「もっとも原始的な先住民族の社会には宗教が存在しない」と教えられていました。しかしタイラーは、そうした社会にも「宗教的なるもの」が存在すると主張しました。彼によれば「すべてのものに霊的な存在を見出す信仰」こそが、最も根源的な形態であり、それをアニミズムと定義しました。

しかし植民地主義の真っ只中だった当時、アニミズムは未開社会の人々の劣った信仰とみなされ、その信仰は次第に多神教、一神教へと進化していくと考えられました。こうした考えは「文化進化論」と呼ばれますが、日本でもいまだにそのような見方でアニミズムを考えている人が見受けられます。例えば、アニミズムは「神道以前の宗教未発達だった縄文時代の信仰だ」と言われることがありますが、こうした進化論的な見方でアニミズムを考えることはやめるべきでしょう。

酒井

アニミズムと聞いた時に、「過去のもの」と考えてしまうのも、進化論的な視点からなのですね。

奥野

そうですね。タイラーは特に死者や祖先などの魂が人々の夢の中に出てくることを手がかりに、あらゆる人間は何かしらの魂、「アニマ」を持つ存在たちを想像しているのではないかと考えました。「アニマ(anima)」は、アニマル(animal)やアニメーション(animation)と語源を共有していますが、「動くもの」を意味します。つまり「すべての存在の中に動く魂のようなものが潜んでいるのではないか」という考えや信仰を、タイラーはアニミズムと呼んだわけです。

しかし、タイラーのこうした見方には問題がありました。彼の考えでは、石や木などの動かないものにも「魂が宿っている」とされますが、これは一見、物質に精神を認めているようでいて、実は「本来魂はないはずのモノに、あえて人間のような魂を投影する」という発想に基づいています。つまりそこには、「人間」と「非人間」、「物質」と「精神」を分ける、西洋的な二元論の考え方が前提としてあるのです。こうした中で、植民地主義的な進歩史観を持つとして、アニミズム研究自体も20世紀後半には注目されなくなります。

酒井

アニミズムにもそうした変遷があったんですね。

奥野

そうしてアニミズムは長らく「未開の信仰」として軽視されてきましたが、1980年代以降、フランスの人類学者のフィリップ・デスコラなどによって再評価が進められます。デスコラは、人間と非人間(例えば樹木など)は物質的には繋がりがないが、内面的には繋がりや連続性を持っていると考えました。つまり、アニミズムとは「主体と客体の間に精神的な、ないしは内面的なつながりを見出す世界観」だというのです。私たち人間はものたちと内面で繋がっておりその上で対等な関係性にある、という心身二元論を超えた新しい視点からデスコラはアニミズムを定義しました。

さらに、イギリスの社会人類学者のティム・インゴルドは、人間も非人間も固定的な「存在」としてではなく、「生成・変化する、動きのある存在」であるとして生成論的にアニミズムを捉えています。つまり、存在は固定されたものではなく、関係性の中で、常に生成・変化し続けるものだといえます。

こうした議論を経て、アニミズムは今日、人間と非人間の関係性を捉え直すための思想として再構築されています。

人間だけが地球上の唯一の主人ではない

酒井

「全てのものに魂を見出す思想」としてアニミズムを考えたタイラー、「人間は非人間と内面的な連続性を持つ」と考えたデスコラ、そして「あらゆる存在は生成的に動き、流転しながら存在する」と考えるインゴルド。人類学の中でも、さまざまなアプローチでアニミズムの理解が進んできたんですね。

奥野

私なりに端的に言えば、アニミズムとは「人間だけが地球上の唯一の主人(マスター)ではない」という考え方です。その根底には、動物や植物もまた、精神や内面性を持つ存在であり、人間と本質的に何ら異ならないという認識があるわけです。形は違えど、彼らもまた「同じような存在」であり、だからこそ人間だけがこの世界の主人ではないんです。

酒井

奥野さんのフィールドワークで研究されたボルネオ島の狩猟民プナンの人々は集団で生活し、狩猟採集を行う中でアニミズム的感覚を実践しているようですね。一方で、個人主義が広がり、生活がサプライチェーンに支えられた現代社会はあまりに環境が異なります。私たちが、アニミズム的感覚を持つことは難しいと感じるのですが、どう思われますか?

奥野

アニミズムとは「自然界に存在するものすべてをどのように見るか」という思考の傾向性の一種です。思考の傾向性とは、「ついつい、こう考えてしまう」というものの見方のことですが、私たちはそのアニミズム的な思考の傾向性を本来持ち合わせているのだと思います。日本語では、動物も植物も「物(モノ)」として捉えられますが、アニミズム的な視点では、これらは単なる「モノ」ではなく、人間と同じような人格を持つ存在と見なされてきたのだといえます。仏教に「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」という言葉があるように、動植物だけでなく山や川までもが、仏性を持つ存在なのです。

  • 山川草木悉皆仏性

    野も山も、あるいは森も川も全てに生命がある、水にも命がある、虫にも命があると考えること(※2)

しかしこうしたアニミズム的な感覚を、現代社会に暮らす私たちは抑圧してしまっています。ただ、その抑圧された感覚は、完全に消えてしまったわけではなく、私たちの日常の中に根強く残っています。例えば、高畑勲監督のの『平成狸合戦ぽんぽこ』では、さびれた裏山で、狸が人間のように暮らし、都市開発に抵抗する様子が描かれます。こうした物語を私たちは違和感なく受け入れていますよね。つまり、私たちの精神の奥深くには、動物を人間と対等な存在とみなすアニミズム的な感覚や素地が残っているわけです。

上沢

ペットの室内飼いが増え、最近ではペット用のおせちのように人間と同じものを食べさせようとする動きもみられていますが、人間とペットの関係性はアニミズムと言えるのでしょうか。

奥野

それは少し複雑な点かもしれません。日常生活の中で、人間と動物を明確に区別した上で、人々は精神的な繋がりを求めてペットを家に連れてくるわけです。ペットを家族の一員として扱うことは、一見アニミズム的なつながりを築くことのように見えますが、同時に「擬人化」だともいえます。例えば、犬に洋服を着せる行為は、本当に犬のためにやっているんでしょうか。犬の寒さを防ぐためなのか? それともファッションの一環なのか? こうした行為は人間側の価値観に基づき、犬を擬人化した結果である可能性が高いです。擬人化はアニミズムとは同じものではなく、動物と人間を切り分けて、動物を人間のように擬する行為ですね。

行き過ぎた人間中心主義を見直すこと

酒井

「人間だけが地球上において唯一の主人ではない」というアニミズムは、気候変動が悪化する今こそ求められている思想なのではないかと感じます。

ジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』では、気候変動を引き起こした資本主義の根底にあったのは、人間と自然を分断し、人間による自然の支配を肯定してきた世界観だと語られています。ヒッケルは世界各地の先住民族の知恵を引き合いに出しながら、生態系での相互依存にもとづく思想としてアニミズムに可能性を見出しています。奥野さんから見て、気候変動の時代に求められる思想とはどのような形だと思われますか。

奥野

人間活動は、二酸化炭素の放出や森林破壊を通じて、地球環境を大きく変えてしまいました。近年では、人間の影響が地質学的なレベルまで達していると言われますよね。その結果、気候変動が加速し、生態系全体が破壊されるまで、大きな変化が起きているわけです。

これまで人間は、特にルネサンスの人間復興以降、自らを生態系の中心に位置づけた上で、科学の発展力を信じ、自然を管理・支配することで発展してきました。しかしその過程で多くの種を絶滅させ、生態系のバランスを崩してきたのも事実ですよね。例えば、森林伐採などの開発によってコウモリの生息地が失われると、コウモリは食料を求めて人間の生活圏に近づきます。それによって、保有していたウイルスの人間への拡散リスクが高まりました。こうした現象はまさに人間本位な自然への介入が招いた「しっぺ返し」に他なりません。

酒井

ツケが回ってきたと。

奥野

このような問題に対処するためには、ルネサンス以降続いてきた行き過ぎた人間中心主義を見直し、あらゆる生命との関係を再構築する必要があるのかもしれません。人間を特別な存在と考えるのをやめ、多様な生命と共存する視点へと移行しなければ、私たち自身の未来も危うくなってしまいます。

その上で、人間が、人間を超えて、生態系の絡まり合いに即したかたちで暮らしていくという視点が求められてきているのかもしれません。人間は単独で生きることができる存在ではなく、地球上の多様な種のうちのひとつとして、他の生物と密に関わりながら生存してきたわけです。「地球上において人間だけが主人ではない」というアニミズムの思想は、人間と生態系の関わり方のうち、人間と非人間的存在との対称性を示しているのだともいえます。

現代社会の加速主義に対して、人間や種間の平等を掲げるアニミズム

上沢

トランプ政権が再び発足し、気候変動対策の国際的な枠組みであるパリ協定から脱退しただけでなく、イーロン・マスクらテック革命を牽引する起業家たちが影響力を強めています。その中では、技術を最大限活用し、社会そのものを加速させる一方で、格差拡大がさらに悪化することが懸念されています。こうした状況の中で、アニミズム的な思想はどのように位置付けられるのでしょうか。

奥野

イーロン・マスクに代表される加速主義的な考え方の根底には、「自由と平等」のうち、「自由」を優先するという特徴がありますよね。ここでいう自由とは、つまり新自由主義をさらに推し進めた形であり、科学技術の発展を通じて個人の活動の自由を最大化することを目指しています。こうした加速主義の中で可能になる自動運転やChat GPTなどAIの技術は、たしかに便利さや快適さをもたらします。ただ現在のテック企業の一部は、民主的なプロセスすら不要と考えるほど、自由市場と技術革新に全てを委ねています。その結果、格差がますます広がっていくことになります。つまり、「平等」が蔑ろにされてしまうわけです。

一方で、アニミズムはこうした加速主義的な考え方とは正反対の価値観を持っています。

上沢

つまり、アニミズムは「平等」を重視すると。

奥野

はい。アニミズム的な世界観においては、人間と動物、人間と植物、人間と自然といった関係性において、すべての存在が対等であると考えられます。これは西洋的な「人間が自然より優位である」という考え方とは根本的に異なるわけです。数世紀に渡って、西洋文明はアニミズムを未開で劣ったものと見なして排除してきましたが「エスノフィロソフィー(民族哲学)」という言葉で表現されるような先住民の知恵の中には、アニミズム思想は今も強く残っています。

例えば、私がフィールドワークを行ってきたプナンの人々は、平等原理の中で生きています。狩猟で得た獲物は、皆の前で公平に分配されます。たとえ本音では「もっと多くの肉が欲しい」と思っていたとしても、それを抑え、平等の原則を貫くわけです。プナンの社会では「自由」よりも「平等」が優先される社会が成り立っています。加えて、彼らにとっては、動物は人間と「平等」の存在です。

こうした先住民の思想やアニミズム、エスノフィロソフィーの考え方は、資本主義や加速主義がますます強まる現代社会において、不利な立場に置かれていると言わざるを得ません。しかし、だからこそ思想的な重要性を持つともいえます。

適切な人間中心主義を探る

酒井

様々な生き物との平等なあり方を考える上で、私たちはどこまで脱人間中心主義的になるべきなのだろうか、という問いも生まれます。インゴルドは『世代とは何か』の中で、「脱人間中心主義」ではなく「責任ある人間中心主義」を提唱していますよね。他の生命が生きられる状態を維持するために地球環境をケアするという、特別な責任を人間が負うべきだという考え方だと私は受け取りました。この視点は、アニミズムを現代社会の中で実践する上でカギになるのでしょうか。

奥野

インゴルドは『世代とは何か』の中で、先住民社会に根づいた生態系に基づく「ウィズダム(知恵)」を、西洋とは異なる形での人間中心主義とみなしているようです。人間と多種多様な生命や環境が密接に関わり合う世界観とは、単なる「脱人間中心主義」と言い切れるものではありません。

ただしインゴルドの議論では、人間が地球環境を積極的にケアすべきだという倫理的な責任感は、必ずしも強調されているわけではないようにも感じられます。むしろ彼は、西洋的な二分法——「人間中心主義 vs. 脱人間中心主義」——を乗り越え、先住民の知に見られるような、関係性を基盤とした「適切な意味での人間中心主義」を模索しているのではないでしょうか。

現代社会におけるアニミズムの可能性を考える上でも、そうした二項対立を超えて、昔から実践されてきた人々の知恵を参照するということが必要だと思います。

アニミズムとは私たちの中に元々眠っていたが、現代社会の中で抑圧されてしまった思考の傾向性だ、と奥野さんは語りました。「山川草木悉皆仏性」という言葉が示すように、植物や山、川の主体性をふと感じてしまう感覚を取り戻すためにはどのような仕掛けが必要でしょうか。後編では、人間と非人間の世界を繋ぎうる実践の可能性についてお話を伺います。

引用・参考文献:
※1 『今日のアニミズム』奥野克巳/清水高志(以文社)P45-46より
※2 『生かされる命をみつめて《見えない風》編』五木寛之(実業之日本社文庫)P109より
※3『植物と叡智の守り人』ロビン・ウォール・キマラー(築地書館)P484-485/P31より
Mistry, Jayalaxshmi, and Andrea Berardi. “Bridging Indigenous and Scientific Knowledge.” Science, vol. 352, no. 6291, June 2016, pp. 1274–75. science.org (Atypon).
IPCC(2018)『1.5°C特別報告書(Summary for Policymakers)』

この記事をシェアする

FRL

この記事の著者

酒井功雄

東京都出身。気候変動を文化的・思想的なアプローチで解決するために、「植民地主義の歴史」と微生物を中心に世界を捉えなおす思索を行なっているアクティビスト。日本・東アジアで脱植民地主義を考えるZINE「Decolonize Futures—複数形の未来を脱植民地化する」エディター。2019年2月に学生たちの気候ストライキ、”Fridays For Future Tokyo”に参加、2021年にはグラスゴーで開催されたCOP26に参加。米国インディアナ州のEarlham Collegeで平和学を専攻し、2024年に卒業。2021年Forbes Japan 30 Under 30選出。

エディター

Goldwin Inc.

上沢勇人

2019年入社。THE NORTH FACE STANDARDのショップスタッフを経て、2023年よりマーケティング部所属。趣味はロングトレイルやバックパッキング。ここ2年ほどはトレイルランにハマり100mileの完走を目指してトレーニング中。

Tags