わたしたち、以外の“わたしたち”へ 02
気候変動アクティビストが「アニミズム」について考える理由
2025.05.30 Fri
私たちは自然と、どのような関係を築き直せるのでしょうか。資源として使い尽くす対象ではなく、「共に生きる存在」として自然を捉え直すには、どんな視点や文化の転換が必要なのか──。
このリサーチでは、現代社会の中で薄れつつあるアニミズム的な感覚を、研究者や実践者との対話を通して探っています。
今回は、協働リサーチャーとして参加してくれている環境アクティビスト・酒井功雄さんの歩みに焦点を当てます。高校時代から気候変動対策の市民運動に関わってきた彼は、その活動を通じて「人と自然を切り離す思想こそが、環境破壊を可能にしてきたのではないか」という問いに向き合うようになります。
数字や制度では捉えきれない、自然との関係性の再構築──そのヒントとして、彼が出会ったのが「アニミズム」という視点でした。

初めまして、環境アクティビストの酒井功雄です。
私は子どもの頃から知的好奇心が旺盛で、気になったことは何でも知りたい性格でした。私が環境問題に関心を持ったのは2019年、高校三年生の時です。きっかけは、当時15歳だったグレタ・トゥーンベリのスピーチを見たことでした。
「気候変動が進んだ未来、2078年に私は75歳になる。そのとき私の孫は『なぜまだ時間があったときに何もしてくれなかったのか』と問うでしょう。… あなたたちは私たちを愛していると言いながら、私たちの未来を奪っています。(一部要約)」
彼女の言葉にショックを受けました。気候変動がこのまま進めば、まだ生まれていない私たちの子どもや孫の世代が、より大きな気候変動の影響を受けます。私が今、何もしなければ、自分の子どもたちに顔向けできるだろうか。これまでどこか遠い話だった「環境問題」が、急に身近で、怖いものとして感じられるようになった瞬間でした。
気候変動の取り返しがつかなるなる「ティッピングポイント」
人間が大量生産大量消費をはじめるきっかけとなった産業革命以降、人間の活動によって排出されてきた温室効果ガスが地球の平均気温を少しずつ上げ続けてきました。それによって大気のバランスは崩れ、気候変動は現在進行形で進んでいます。もはや「自然災害」ではなく、「人災」とさえいえる状況です。
地球の気温があるラインを超えてしまうと、自然のシステムが一気に崩れてしまい、もう元に戻せなくなるような「分かれ道」を「ティッピングポイント」といいます。平均気温が産業革命前と比べて「1.5℃」を超えてしまうと、例えば、南極やグリーンランドの氷が一気に溶けて、海面が何メートルも上がってしまうかもしれない……。この事実と言葉を知って私は驚き、そんな未来を止めるには、いますぐ行動するしかないと感じました。
この危機感を共有した若者たちがグレタの呼びかけに応え、「Fridays For Future(未来のための金曜日)」という名のもとに世界中で立ち上がりました。毎週金曜日に学校を休んで様々なアクションを起こし、気候変動/気候正義のために脱炭素すべきと声を上げ始めたのです。
2019年に日本でも始まったこの活動に私も参加し、デモ行進を企画したり、CO2の削減を政府や企業に求める署名キャンペーンを実施したり、声を挙げ続けました。「声を上げる若者」として様々なメディアに取り上げられ、日本政府は2050年のカーボンニュートラルを宣言し、「SDGs」や「脱炭素」という言葉を新聞や広告でも多く見かけるようになりました。しかし。自分の声が少しずつ社会の変化に繋がっているような手応えを感じる一方で、これだけで本当に気候変動という大きな問題が解決できるのだろうか、とモヤモヤした思いも抱き始めていました。
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学校のあとにストライキに参加した -
Fridays For Futureの日本で最初のアクション
数字だけではなく、自然との向き合い方を変える必要がある
その違和感は、進学したアメリカの大学ではっきりと言語化されることになります。それは教授から投げかけられた「環境破壊を引き起こした文化とはどのようなものか?」という問いであり、私が考えてきた気候変動という「現象」の裏には、そうなることが当然である「文化」があるということでした。
その文化の正体とは、人間と自然を切り離し、人間が自然を支配するべきだとする思想だと知りました。人類学者のジェイソン・ヒッケルは『資本主義の次に来る世界』の中で、資本主義社会で生きる私たちは自然に対して、人間の方が精神や心を持つ優れた存在だと無意識のうちに思ってしまっている、と指摘しています。(ヒッケル 40)人間と自然を対立する二つに分ける考え方は「二元論」と呼ばれ、西洋哲学を通じて長く受け継がれました。こうした世界観によって、先進国を中心に自然を「資源」や「モノ」として捉えて、好き勝手に使い尽くすことを肯定してきました。

気候変動のアクティビズムに関わる私自身もそのような考えを内面化していました。「自然保護」という言葉は、人間は自然界において優れた生命/存在であり、自然は人間が守らねばならない弱い存在であるという考えを前提としています。
現実において、私たちはさまざまな生き物たちや生態系のはたらきに支えられて生きています。植物は二酸化炭素を吸収して酸素をつくり、土の中の微生物たちは動物や植物の死骸を分解することで植物たちの栄養を供給し、循環の一部を担っています。そんな自然の仕組みがなければ、私たちは生きていくことはできません。
そう考えたとき、人間と自然を切り離して考える二元論的な文化のままでは、「私たちが生態系の一員としてどう振る舞えばよいのかを知ることはできないのでは?」という疑問が湧いてきました。たとえCO2の排出量が基準値を下回ったとしても下がっても、自然を「モノ」や「資源」としてしか見ない考えが続けばいていれば、きっとまた違うかたちで環境破壊は起きてしまう。だから、ただ数字を減らすだけでなく、「自然との向き合い方=文化」そのものを変える必要があると考えたのです。
生き物たちと与え合うことを教える先住民の人々の知恵
自然を「支配するもの」としてみなす考え方は、植民地支配を通じて世界中に広がっていきました。でも、そのずっと前から、それとはまったく異なる自然との向き合い方をしていた人々が世界のさまざまな場所に存在していました。
大学で環境思想について学ぶなかで、私はアメリカの先住民族の人たちの自然観に触れる機会がありました。中でも印象的だったのが、先住民族の植物学者ロビン・ウォール・キマラーの本『植物と叡智の守り人』です。本の中では、こんなふうに語られています。

人間がベリーの世話をすれば彼らの贈り物は増えるし、なおざりにすれば贈り物は減る。私たちは、相互に与え合うという誓約で結ばれている。私たちを養ってくれるものを私たちがお返しに支え、互いに責任を果たしあう約束だ。…. ところがある時点で、人間はベリーの教えを放棄してしまった。豊かさの種を蒔く代わりに、私たちはことあるごとに未来の可能性の芽を摘んでいる。未来への不確かな道筋は、言葉を見るとよくわかる。
ポタワトミ語では、土地のことをemingoyak、「私たちに与えられたもの」と言う。英語では土地は「天然資源」とか「生態系サービス」などと呼ばれる。まるで人間以外の生き物は人間の所有物だとでも言いたげに。 …隣人がギブアウェイを開いている間に誰かがその家に押し入り、好きなものを奪っていったとしたらどうだろう。その道徳を欠く行為に、私たちは激怒するに違いない。
地球も同じことだ。地球は、風や太陽や水のパワーを無償で提供してくれているのに、私たちは地を裂いて化石燃料を盗む。私たちが、与えられたものだけを受け取っていたら、受け取った贈り物にお返しをしていたら、今ごろ私たちは、自分が吸い込む空気を怖がらずに済んだのだ。(※2)
自然のなかで与え合うことが必要だと語るキマラーの言葉は、生態系の一員としてのふるまい方を示していました。こうした先住民族の人々の思想や知恵、そして生命は植民地主義の中で、長らく排除されてきたのです。キマラーの本はベストセラーとなり、環境運動の中でも先住民族の知恵から学ぼうという議論が広がっていきました。
現在では、焼畑農法を通じた土壌再生や、山火事のコントロールなど、先住民の人々の伝統的でエコロジカルな知恵による管理方法は、生態系の維持に有効であることが科学的にも検証されています。
ただ、その動きが広がる一方で、先住民族の人々が置かれてきた歴史的背景を見落としたまま、都合の良いかたちで理想化してしまう危うさも存在しており、注意深く関係を築いていく必要があります。
私たちはいかにアニミズムを現代で実践できるのか
キマラーのような先住民族の知恵や産業化以前の世界で機能していた生態系の一員として生きる文化を調べるなかで、日本で生まれ暮らしてきた私が無意識に受け取っていた「森羅万象にカミが宿る/いる」と考える文化に、どこか通じるものがあるのではないかと考えるようになりました。その共通点を探るなかで出会ったのが、「アニミズム」です。
人類学者の奥野克己さんは、アニミズムとは「人間だけが地球上において、唯一の主人ではないとする思想である」と語ります。これは、地球の危機と向き合い、私たちが自然の一部として気づき直すための重要な視点ではないでしょうか。
とはいえ、現代の暮らしの中でそれをどう実践すればいいのか。キマラーはこう問いかけます。
「私たちがみな狩猟採集民になることは難しい。しかし市場経済の中で少なくともこの世界が私たちの贈り物だと考えて振る舞うことはできないでしょうか」(※3)
それは、サプライチェーンによって生態系と切り離されてしまった衣食住や暮らし方、身近な山などの自然との関わり方を考え直すことかもしれません。私たちが存在を忘れてしまっている、生態系の中の住人たちと再び繋がり直すことはどのようにできるのか。私たちがただ取り続けるのではなく、お返しをしていくことを社会システムや生活様式の中にどうすれば組み込めるのか。
この連載では、次回以降、様々な研究者や実践者とともに、アニミズムを現代社会で呼び起こすためのヒントを探っていきます。
引用・参考文献:
※1 『資本主義の次に来る世界』ジェイソン・ヒッケル(東洋経済新報社)P40より
※2/※3『植物と叡智の守り人』ロビン・ウォール・キマラー(築地書館)P484-485/P31より
Mistry, Jayalaxshmi, and Andrea Berardi. “Bridging Indigenous and Scientific Knowledge.” Science, vol. 352, no. 6291, June 2016, pp. 1274–75. science.org (Atypon).
IPCC(2018)『1.5°C特別報告書(Summary for Policymakers)』
この記事の著者

酒井功雄
東京都出身。気候変動を文化的・思想的なアプローチで解決するために、「植民地主義の歴史」と微生物を中心に世界を捉えなおす思索を行なっているアクティビスト。日本・東アジアで脱植民地主義を考えるZINE「Decolonize Futures—複数形の未来を脱植民地化する」エディター。2019年2月に学生たちの気候ストライキ、”Fridays For Future Tokyo”に参加、2021年にはグラスゴーで開催されたCOP26に参加。米国インディアナ州のEarlham Collegeで平和学を専攻し、2024年に卒業。2021年Forbes Japan 30 Under 30選出。